蒼天のかけら 幕間 真導士の買い物
真導士の買い物(1)
「とりあえず、おさらいをしよう」
目の前にいる相棒は、琥珀の瞳に真面目な色を浮かべてこくりと肯いた。
肯いた拍子に、ゆれる添え髪から香りがただよってきて、気を逸らすのに苦心してしまう。
――リテリラの香油。
彼女はこれしかつけていないから、間違いようがないけれど。自分が記憶している香りよりも甘く、鼻腔をくすぐっていく。
香油を混ぜているとは思えないのだが……。この甘さはどこから出ているのか、いまだに謎だ。
香油屋が薦めている規定量よりも、少なくつけているのだろう。かなり近くまで寄らないと、気づくことができないほど薄いその香り。
だが、気づいてしまったら最後。気になって仕方ない。もちろん心は大いにゆれる。しかしこれも気力の修業だと割り切って、目の前の本に視線を落とした。
「まず真術について。真術は己の中に有している真力を、精霊に捧げることによって生み出される奇跡の力……」
視界の端で、またこくりと動いた気配がする。
長椅子に座っておけばと、食卓で本を広げたことを後悔した。そうすればサキの気配をもっと近くで感じられたというのに。何という失策だ。
次回からぜひ気をつけよう。
「世界に真円を描き、展開する場所と範囲とを決定する……。真円を描くのも、真術を展開するのも気力で行う。つまり真術は、真力と気力と精霊によって造り出されているのだと言える」
「はい」
律義な返事が一つ。
控え目な声は、サキの性格をよく映し出している。
「また、真術の強さは注がれる真力の量と、集めた精霊の数で決まる。しかし真円は、無理に真力を注ぐと破裂して消えてしまう。破裂を防ぎ、多量の真力を注ぐ手段として確立されているのが、真円を重ねるという技法」
一口だけ水を含む。
今日は日差しが強くて喉が渇く。この調子なら夜まで雨も降らないだろう。
「真円を重ね、多量の真力を注いだだけ、真術はその強さを増していく。……そうしていくと今度は精霊の数が足りなくなる。それを防ぐには強い真術を展開する前に、精霊を呼び寄せておく必要がある。あらかじめ真力を大気に放出して……いわゆる撒き餌だな、集まってきた精霊を己の配下に置く」
「呼んだ精霊を、横取りされることはないのでしょうか」
「それは……ああ、ここにあった。横取りされることもあるらしいが。基本的には、呼び寄せた真力の主に従うらしい」
サキの質問は、いいツボを突いてくることが多い。
これも勘なのか。それとも元々の特性なのかはわからないが、学問を進める時には心強いものだ。
「で、ここからが本題だ。真力について――」
そこで言葉を切って彼女を見る。
じっと見つめ返してくる琥珀は、窓から差し込む日に照らされ光を放っている。
思わず目を細めた。
薄い金に縁取られた、とろけるような蜜色の瞳。密かに好ましく思っている彼女の色。
沸き上がった気分を誤魔化すために、呼吸を整える。
待つと言ったのは自分だ。
急いてもいい結果はついてこない。過去にした苦い経験は、ここで生かすべきだ。
「真力は己の中に有している女神の恵み。真眼を通してのみ、大気に放つことができる白い奇跡の源。……色々小難しい書き方をしているけど。単純に言ってしまえば、真眼から真力を出すのにも真力が必要になるらしい。有している真力の量が多ければ多いほど、勢いよく外へ放つことができる。逆に少なければ外へ放つ力も弱まり、真力が大気に溶け込み易くなる。大気に霧散し、真円に必要量が行き渡らなくなるから、真術を展開できない可能性が出てくる」
一気に言い切って、息を吐く。
(……これは難問だな)
理解しがたい現象がサキに起きている。
本から視線を引きはがし、目の前に座っている相棒に視線を移す。彼女は不安げな表情のまま、左手首に嵌めてある銀の腕輪を見つめていた。"鎮成の陣"という名の真術が籠められている、銀の術具。
"鎮成の陣"は相手の真力を抑え、封じるための真術だ。
史上最も真力が低いとされるサキとは、どう考えても相性が悪いはず。理屈だけで言えば、"鎮成の陣"を通して真術を展開することは不可能。だが彼女はその真術を通してしか、奇跡の力を行使できなくなっている。導士達に配られている教本にも。図書館から借りてきた本にも。このあまりに不可思議な現象への説明は、一文も記載されていない。
試しに自分も腕輪を嵌めて、いくつか真術を展開してみた。そうしたら通常の威力が出ないばかりか、展開できずに真力が霧散してしまったことも数度あった。真円を重ねればこの真術を越えられるように思うが。二人ともまだ一つの円しか描けないので、考えからは外している。
真力の量だけで考えれば、自分以上の力を有するものはいない。つまりこの腕輪を通して、一つの真円で真術の展開ができる真導士など存在しない。それなのに、サキには出来てしまう。むしろ腕輪を外すと、真術が展開できなくなってしまっている。
つい先日までは、腕輪などなくともちゃんと展開できていたのに。この急激な変化は一体どうしたことか。
「……変、ですよね」
「理屈だけで言えばそうなる」
蜜色の瞳が曇っていく。
瞳の曇りと当時に、気配にも陰りが見えてきた。サキからあふれだしてくる不安の気配が、真眼に疼きを与える。
「そんな顔をするな。真術を失ったわけではないのだから」
「はい……」
無理に微笑もうとする相棒。
その顔を見て、自分の中にある庇護欲が激化したのを感じた。我慢ができず、彼女の手に触れる。こんなにあたたかい日でも、サキの手はわずかな冷たさを抱えている。
まだ心を通い合わせたわけではないので、本当なら手に触れるなどもっての外。けれど、彼女からの拒否はない。
拒否されていなければ大丈夫だと、勝手に解釈させてもらい。時間をかけて冷たい指先をあたためる。
「大丈夫だから、心配するな……」
言いながら、彼女の気配を辿っていく。
サキを彩る清涼な気配。女神の息吹とも思える彼女特有の真力。
そよ風のような涼しい気配の中、不安の渦が大きく巻いている。消してやりたいと願いながらも、いまだ実現には至っていないその渦。サキはいつもそうだ。こんなに清涼な気配をしているのに、常に不安が渦巻いている。
例え楽しそうに笑っていたとしても不安の渦は消えず、ただ小さくなるばかり。
本人も気づいていないのだろう。無意識に彼女を苛み続けている何か。その何かを探り切れずに、日々虚しく手をこまねいているところだ。
自分の力のなさが苛立たしく。人知れず歯噛みする。
どうしてかサキに関わる事柄は、思う通りにならないことが多い。もどかしい想いのまま、小さくて細い手を握り込む。翻弄されている自分のなんと滑稽なことか。故郷の連中にはとても見せられやしない。
「ローグは、いつもあたたかいですね……」
ようやく表情から不安が消え、微笑みが浮かぶ。気配の渦も小さくなってきているようだ。
「サキの体温が低いだけだろう」
言えば、サキが重ねた手を引き寄せた。自分の手が、透けるように白い額に当てられた。前髪が当たってこそばゆいが、除けてしまってはもったいない。いまは、彼女の思うままにさせておく。
やはり、思い通りにならない。
恥らってばかりかと思えば、たまに驚くほど大胆なことをしてくれる。
彼女の安全を確保しようと躍起になっていただけなのに、いつの間にか目が離せなくなった無二の相棒。そして、もう目を離してはいけなくなったのだと唐突に理解する。
伸び盛りに入った気持ちの行方は、刻一刻と変化していっているのだろう。
油断は命取りだ。
ついに実を結び始めたサキを、横からかすめ取られては適わない。
芽を摘まれないように。花を傷つけられないようにと、ここまで見守ってきた――。
肌の滑らかさを感じながら満足感に浸っていた。この後、背後から一気に突き落とされるとは、その瞬間まで思いもしなかった。
「違います。男の人は皆そうだと勘違いしていましたけど、ローグだけ他の人より体温が高いのです」
鮮烈な言葉にすべての感情が吹き飛んだ。
いま彼女は、聞き捨てならないことを言ったように思う。
「なあ、サキ。……誰と比べている?」
肩がびくりと跳ね上がった。
実に……素直な反応だ。
素直なのはサキのいい所でもある。しかし、どうにも嫌な気分が湧いてくる。
彼女は自分の気持ちを知っている。いまのところ一方的な想いであっても。聞く権利くらいはあるだろう。
「他の"男"より、という意味で合っているな。比べているのは、誰だ」
年頃の娘が、多数の男と肌を触れ合わせていいはずがない。
「えっと、その……ヤクスさん……」
「ヤクスね……」
確かにヤクスは入っているだろう。
奴は医者だ。
サキが寝込んだ時、体温を確認していたのは傍で見ていたし、そこにやましい何かがないのは知っている。
しかし、どうもそれだけだとは思えない。
その証拠に蜜色の瞳が、うろうろと視線の置き場を探している。完全な嘘ではないが隠し事をしているらしい。まったくなんとも素直な相棒殿だ。
「ヤクスだけか?」
重ねて問う。
普段ならば、ここで彼女の意地が砕けるはずだった。
サキは嘘を吐くのに慣れていない上、隠し事も下手だ。言いづらい内容であったとしても、きっちりと二度聞けば、間違いなく自ら真実を話し出す。
ざわつく気分を抱えながらも、そのつもりで待ち構えていたのに予想外の回答が返ってきた。
「……言えません」
蜜色の瞳が瞼に覆われていく。それと同時に自分の手が額から離されて、細い手がローブの袖に隠れていってしまう。
その行動と切羽詰まったような表情に、唖然とさせられた。
「サキ……?」
「ごめんなさい、言えないんです……!」
苦悩した様子でそれだけ言って、彼女は自室へと帰って行ってしまった。
残されたのは食卓に広げられた本と、薄いリテリラの香り。
予想以上に思い通りにならない現実。茫然自失となった自分は、しばらくその場で石のように固まっていた。