蒼天のかけら 幕間 真導士の買い物
真導士の買い物(3)
「ただいま」
居間の扉を開けて、帰宅を告げる。
倉庫に出かけているかと思った相棒は、早めに夕食の支度に取りかかっていたようだ。炊事場から物音と、空腹を煽るいい匂いがしてきていた。
かたりと何かを置いた音と共に、そろそろと動く気配がして。炊事場の入口から、サキが半分だけ顔を覗かせた。消え入ってしまいそうなほど小さな「おかえりなさい」が聞こえてくる。思わず彼女の様子を注視した。
先ほどのことを気にしているのかと思い、気配を辿っていく。完全に気にならなくなったと言えば嘘になる。しかしいまは他の使命を抱えているので、家を出る前ほど心を乱されていない。
そして何より、サキの態度が重要だった。怖がらせたか、必要以上に己を責めさせたかと案じられてならない。
彼女が逃げないことを確認しつつ、ゆっくりと近づいていく。言うと膨れるが、やはりサキは猫に似ている。影に隠れながら様子を窺っているところなどそっくりだ。
清涼な気配の中に、大きさを取り戻してしまった不安の渦が見えた。せっかく小さくなっていたのにと、悔しさが増してくる。
何とかしようとさらに近づいて――それに気づいた。
彼女がずっと抱えていた悩みの気配。ようやく口にしてくれた自分への甘えの心が、肥大化してしまっている。
思わず笑いが出た。
こんなにも自分を振り回してくれている彼女は、一人この家にいながら寂しさを募らせていたらしい。彼女に翻弄されている自分は、傍から見ればあまりに滑稽なのだろうな。
「サキ」
呼べば、影に隠れながらも琥珀を揺らしている。
炊事場の入口まで到達したが、物陰に隠れる猫はやはり逃げる様子を見せない。驚かさないよう細心の注意を払って、そっと左手を差し出し。半分だけ覗かせている顔を撫でた。
「どうした」
心の内は見えているが、あえて問うてみる。知っていたとしても、その口から聞いてみたいと思うくらいは許されていい。
頬を撫でていると、ふわふわと揺れる琥珀の瞳が、瞼の裏に隠れていってしまった。
……無防備になるなと言ったのに、これだ。
相棒殿は、人の話をちゃんと聞いているのだろうか。罰として腕の中に拘束することを決定する。ヤクスの顔がちらついているが、これ以上はしないと胸の内だけで伝えておいた。
腕の中。ローブに顔を埋めて目を閉じているサキから、甘い香りがただよってくる。つい、目の前にある黒の帽子に視線を落とした。味も素っ気もないこの帽子に、薄い金の髪が納められているはずだ。
添え髪に触れた時のことが、自然と思い出される。主張をしない色をしている彼女の髪は、とても柔らかく手触りがよかった。一房だけであんなに感触がいいのだ。隠されている後ろ髪をこの手で梳いてみたら、どう思えるのだろう。
(……いかん)
発想がまずくなってきた。
頭の中のヤクスが、がみがみと喧しくなってきてもいる。自制心の番人になりつつある、長身の友人に謝罪を繰り返し。サキを腕の中から解放した。
これ以上は本当にまずい。
まずいというのに寂しがりの相棒は、何で腕から解き放つのだと責めるような表情をしている。
「こら、何を拗ねている」
「……拗ねてなんかいません」
ともすれば、空を彷徨いたがる腕を腰に当てた。冷静さを取り戻すまで、この状態で会話を続けていこうと心に決める。
「どこに、行っていたのですか……」
サキの方から、いい方向に会話を流してくれた。
これはありがたいと、伝えたかった話を流れに乗せていく。
「ヤクスと一緒にジェダスの家まで。後で話したいことがある。あと、どれくらいで出来上がる」
「もう少しです。……話したいことって何でしょう?」
何故かいまさら警戒をしているサキに、苦笑を禁じ得ない。
もう遅いだろうに。
「ああ、ジェダスから相談されてな。ティピアの人見知りについてだ」
夕食はすぐに出来上がった。しかし食べはじめるにはまだ早いので、先に話を済ませてしまうことにした。
今度は間違えず長椅子に座っている。それなのに、二人の間に距離が空いている。
「どうして空けて座る」
「何となく、です……」
昨夜の記憶を刺激してしまったらしい。朱が走らせた頬が、彼女の動揺を映し出している。
これはこれでいいかと思い、話をはじめることにした。
寂しくなれば自分から寄ってくる。
「今日、ヤクスと一緒にジェダスの家まで行ったんだがな。ティピアはヤクスを見て、部屋に閉じこもってしまったんだ」
琥珀の瞳が丸くなった。
ティピアの酷い人見知りは、彼女もよく知るところだが、まさかそこまでと思ったようだ。
「前にも話しただろう。ジェダスがティピアの人見知りを治したがっていて、相談を受けていた」
そういう話にしておこうと、三人の間で取り決められている。
「これから実習も多くなる。ティピアも悩んでいるようだから、協力してくれないかと言われてな。少しずつでいいから、人と接触する機会を作っていくかという話になった」
「そうなのですか。……ジェダスさんって意外と相棒思いなのですね」
二人して噴き出した。
初見の印象は最悪だったからな、ジェダスは。くすくすと笑う彼女から、ジェダスに対する嫌悪は窺えない。話してみればいい奴だと、サキもわかったようだ。
「それで、いったい何をすればいいのでしょうか」
「まずはヤクスと仲良くさせたい。……サキもそれで上手くいったからな。参考にさせていただきますと言っていた」
「……もう、いったい何の話をしてきたのですか」
サキにはとても言えないような、色々な話だ。ついつい湧き上がってきた笑いを喉で抑える。
「そう膨れるな。ここからが本題なのだから」
「はい」
律義な返事を聞いて胸に疼きが走る。
ローグと呼んでくれるようにはなった。けれど、丁寧な物言いを直すのには時間がかかりそうだ。
ただ待つのも、決して楽ではない。
「頼まれたヤクスも、実は自信がないと言い出した。さすがにあれほどの拒絶だと、奴でも落ち込むらしい。会って話すくらいなら協力するが、できれば俺とサキにも、間に入って欲しいと言われた。実習の時もサキとは問題なく話せていたし。その方がティピアにもいいだろうと。まあ、そういう結論になった」
「そうですね……、やさしい人ですけどヤクスさんも男性ですから。いきなりは難しいと思います」
深く肯きながらサキが答える。
「やはりそういうものか?」
「ええ。わたしも最初はちょっと……、怖いなと思っていましたから。ヤクスさんが悪いわけではなくて、男性は少し話しづらいのです」
人見知りは人見知り同士、ということか。
ティピアの心情を察することは、彼女にとって簡単であるようだ。
「俺も怖かったか」
特に意味もなく聞いてみただけだった。それなのに、サキはぴたりと動き止めた。見開かれた瞳がおぼろげにゆれて、過去を辿っていく。
サキの気配が――変わってしまう。
(しまった……)
迂闊にした自分の発言を後悔する。
足元から這ってきた嫌な予感に、固く拳を作って対抗してみる。きっと意味はないだろう。自分を見ていたはずの琥珀が、窓の方へと向けられる。日が落ちはじめている空が、橙に染まり切るまでまだ時間がかかる。
窓越しに、青い空を見つめる彼女。その姿を見て、言えずじまいになっている自分の本心が騒ぎ出す。
「ローグには、あまり人見知りしませんでしたね」
遠くを見つめる朧な瞳。
「急な出来事が重なって、混乱してたせいなのかもしれませんけど」
高く広がる空を、懐かしげに追いかける視線。
「もう、よく思い出せない……」
ふわりと笑った表情を見て、じわじわと上がってきた衝動が身体を動かした。
「……ローグ?」
突然、腕を掴まれたにも関わらず、そこまで動揺はしていない。茫とした気配のまま、彼女が静かに問いかけてきた。
普段のサキとは、まったく違う気配の彼女。言えずにいる本心が身体を埋めていく。不安を抱えているサキには言えなかった。いや、不安の気配が読めていなかったとしても、きっと伝えはしなかっただろう。
目が離せないサキ。
放っておけばふらふらと歩き出して、騒ぎに巻き込まれてしまうサキ。それだけでも、気持ちを大いにかき乱しているというのに。彼女はどこまでも自分を縛りつけていく。
手を離してはいけない。この手を、もし離してしまったら――。
「ローグ、どうしたのですか?」
衝動に巻き込まれていた自分の眼前に、琥珀が映し出された。
その色を見て平静を取り戻す。つかんでいた腕を離し、笑いを浮かべる努力をする。上手く笑えているといい。
「……いや、何でもない」
そうだ、何でもない。
馬鹿な考えなど忘れてしまえ。現に彼女は、目の前にいるではないか。
首を傾げながら、訝しげに覗き込んでくるサキの。その柔らかい頬に触れる。どうも癖になってしまったようだ。
滑らかな白い肌は、手の平にやさしい。
存在を信じられる感触だけが、この衝動を抑えてくれる。
「話が逸れてしまったな」
無理に話を戻す。不自然であるのは承知の上だ。
心配そうなサキの視線を、無視する格好になる。それでも急いで方向を変える。波乱を含みながらも確かに続く毎日に、自分とサキを繋ぎ留めておきたい。
「それでだ。明日あたり、五人で聖都に行ってみようという話になった。出かければ気も紛れるし。周りが知らない奴だらけになれば、少しでも知っているヤクスと話すようになるかと思ってな。サキも行くだろう? せっかく給金も入った。最近はごたごたが多かったから、俺達も息抜きをしよう」
完全に納得してはいないだろうサキは、それでも了承を返してくれた。
なら決まりだと、大げさに笑って話を打ち切る。
気配に敏い彼女。
自分の動揺を、気づかれないでいるのは難しい。
それでもこの気持ちだけは外に出したくはない。外に出したら現実になってしまいそうな気がして、沈黙の蓋で固く封印する。
その後、炊事場に戻った彼女。それを確認してから、居間の窓掛けを静かに下ろした。
もう彼女が空を追えないようにと、願いを込めて。