蒼天のかけら  幕間  真導士の休日


真導士の休日(1) 〜長い一日のはじまり〜


 扉の影に猫がいる。

 二つの琥珀に力を込めて、こちらの様子をじっと窺っている。
 気づかない振りをするのも大変だ。
 だが、これも試練。
 絶対に出方を間違えてはいけない。昨日は最初の一手を間違えて、一日中部屋から出てこなくなってしまったのだ。
 すっかり怖がらせてしまった琥珀の彼女は、懐かない猫に逆戻りをしている。

 確かに怖がらせようとはした。
 あまりに無防備な彼女に、自覚を促そうとは思った。自分に対してだけならまだいい。これも信頼だと思い込むこともできただろう。しかしサキの場合、自分だけに留まらないから困りもの。一度信頼すると、とことんまで相手を信頼し切るのはサキのいいところであり、悪いところでもある。いかにヤクスだジェダスだクルトだと言っても、個人的にはまったくうれしくない。
 相棒だとしても一日中見ているわけにもいかないし。目の届かぬ隙だとて生まれるに違いない。

 だから、少しだけ。
 ほんの少しだけ、彼女に自覚を持ってもらおうと思ったのだ。
 本当に少しだけのつもりだった。言い訳がましいが、とにかくそう思っていた。

 ――それなのに。

 何と間抜けなことだろうか。
 どこで足を踏み外したか、自分でもよくわかっていない。
 階段から転げ落ちるように感情の制御ができなくなった。……転げ落ちたのなら、いっそ頭でも打てばよかったんだ。
 あの夜のことは、もはや言い逃れは不可能。自分は自分の感情に負けた。その現実から目を逸らさぬようにしつつ、失った信頼の回復を目指している真っ最中。
 自室の扉からこちらを見ている猫は、いまだ警戒を解いていない。不穏な動きがあれば、いつでも逃げ戻れるような体勢をとっている。じれったいだけの時間が、かれこれどれくらい続いているか。
 袖机の上には猫が喜びそうな茶と、焼き菓子とを用意してある。何だったら炊事場の棚の中に、果物も入荷済みだ。準備は万端、抜かりはない。
 後はこちらにやってくるのを、ひたすら待つだけ。
 早く隣にきて欲しい。いつもの場所に彼女がいないと落ち着かない。これで心底弱っている。読み進めようとしている書物も、とんと頭に入ってこない。

 外から、緑の匂いを含んだ夏の風が流れてくる。影から顔を覗かせている猫の髪が、ちらちらと視界で遊ぶ。
 早くと願う声と、落ち着けと諌める声とが頭の中で交錯する。
 ああ……、本当にサキは儘ならない。
 これが惚れた弱みという奴か。
 半ば諦めを覚え、それでもなお彼女の到着を待つ。じりじりとした時を刻んでいる中、外から足音が響いてきた。
 幸か不幸か、どうやら来客らしい。
 この奇妙な亀裂を早めに埋めたいところだけれど、まずは距離を埋めた方がよさそうでもある。友人を緩衝材代わりにするのも、時には有りだろう。来訪を知らせる軽快な音に、縋るような思いで応答をした。扉が開かれ、我が家の主治医が顔を出したところで猫もその姿を見せる。
 今日の一手目は、大成功。
 さて、この後はと悩みながら夏の日差しに目を細める。
 長い長い夏のとある一日は、このようにしてはじまった。






「今日も本当に暑いねー」
 わざとらしいくらい元気な声を出してやる。
 そうでもしないと、目の前で微妙な気配をただよわせているお二人さんに、飲まれてしまいそうだ。
 普段なら、胸やけしそうなほど甘い雰囲気を出している友人番は、昨日の朝から様子がおかしい。
 どちらかと言えば、ローグの方が落ち着きを欠いている。
 あれほど忠告したのに、何かやらかしたんじゃないかと疑心が湧く。勘も否定を返してこないとなると、これはついに鎮静剤の出番がきたのかな。
 薬草の扱いには自信がある。サガノトスには質のいい薬草も生えていることだし、いっちょ家伝の薬湯でも拵えてやろう。
 そんな諸々を考えながら患者の体調を確認する。
 眠り病を患っている琥珀の友人は、顔色も口調も平素に近くなってきた。明日から学舎に戻ると言ってもいるし、とてもいい傾向だ。
 原因の究明は怠れないけど、一安心と力を抜いても大丈夫そうだな。
 サキちゃんの具合は、彼女の相棒に多大な影響を与えてしまう。様子が変なローグは、見ていて非常に危なっかしい。例えるならば、火薬庫の傍で起きた小火を見ているような……どうにも心臓に悪い感じがするんだ。
 今日のローグの様子も変ではある。ただ、危なっかしい感じは薄い。
 しょげかえったカルデス商人なんて似合わないにもほどがあるけど、いまは落ち込んでいるくらいで丁度いいのかも。
 サキちゃんが席を外したらからかってやるか。
 しかし、ふいに出た悪戯な気分は、この後やってきた珍客によって凍結させられてしまった。

 とんとんと扉を叩く音がした。
 黒髪の友人の応答に、聞いた覚えのある声が返ってくる。
 この声は倉庫番のおじさんだ。里の中では、真導士でない人も働いている。中でも人数が多いのは倉庫番だった。
 雇われているのは真導士の配偶者が主だと聞いた。真導士の里は、真導士のみが入れるというのは表向きの話。里の中に家を構える真導士もいるので、配偶者や子供は里の中での居住が許されている。希望すれば倉庫番の人々のように、職を得ることもできるんだとか。
 ローグが扉を開けると、予想通りの人物がそこに立っていた。
 白髪が目立ちはじめた倉庫番のおじさん。この人は各家に郵送物を運んでくる。今日もたくさんの嫌がらせを運んできたのかと思いきや、手には何も持っていない。
 郵送物もないのに何用だろう。おっかしいなと内心でつぶやく。
「やあやあ、今日も暑いねえ」
「ええ、そうですね。……何か御用で?」
 ちなみにローグの外面はかなりいい。
 本性を知っている身としては大いに違和感があるけど、おじさんは完璧に騙せている。これは絶対に商売用だ。商人ってのはこれだからタチが悪い。
「今日は、荷物の配達じゃあないんだ。道案内を頼まれたものだから……」
 笑い皺を深く刻んだ顔が、扉の影となっている方へ向けられた。
 人がいたのかと驚く。気配なんてこれっぽっちもしない。
 いったい誰だろうと興味が湧いた。
 興味を抱いたのは自分だけではなかったようで、自宅であるのに緊張しっぱなしの琥珀の友人も身を乗り出した。二人して椅子に腰かけながら首をひょいっと長く伸ばし、扉の外を覗こうとしてみる。
 そんな自分達より楽な姿勢で外を覗いたローグは、その姿勢のまま時を止めた。露骨な反応にめずらしいなと思い、興味関心が大きくなる。どれどれとさらに首を伸ばしていたら、ローグが予想外の行動をとった。

 ぱたんと扉を閉めたのだ。
 あまりに滑らかな動きだったので、誰も止めることなどできなかった。ぴたりと閉まった扉の外から、おじさんが焦ったように呼び掛けている。
「どうした?」
「……いや、その」
 口ごもりつつ返事をした黒髪の友人は、室内を忙しなく見渡している。その表情は完全に強張っていて、欠いていた落ち着きがいっそう失われてしまっていた。
 大慌てで部屋の何かを確認した友人は、琥珀の彼女に目を止めた。
「なあ……」
 ローグに声を掛けられたサキちゃんは、これまた露骨にびくりとした。
 落ち込みが深くなってしまいそうな反応だったけど、いまはそれどころではない様子。少し早めの口調で、ローグはこう問いかけた。
「今日は具合が悪いよな」
 二人して唖然とした。
 何を言い出したんだ、こいつは?
 彼女の体調がよくなることを望んでいたはずのローグは、まるで今日ばかりは具合が悪くあって欲しいといった口ぶりで彼女に問う。
「具合が悪くて、とても起き上れないんだよな」
 どうにか「はい」という返事を受け取ろうとしているらしい。
 質問の口調が、頼むからそうだと言ってくれという心の声を滲ませている。かたや問われた彼女は、意味がわからないと言いたげな顔で固まっていた。
 それはそうだろう。自分の相棒が突然おかしなことを言い出したんだ。
「どうしたんだ、ローグ」
 聞けば必死な様子の友人が、救いを求めるようにこちらを見た。
 慣れない状況に違和感だけが高まっていく。ローグがこんなにも自分を頼ってくるなど、いまだかつてあっただろうか?
「サキは人と会えるような状態ではない。明日から学舎にも行くし、今日はずっと家で休んでいた方がいい。……そうだな、ヤクス」
 おかしな様子のローグは、とにかく彼女を重病人にしたいらしい。
 そういう診立てをしろと懇願してくる黒髪の友人の有様に、サキちゃんと顔を見合わせた。
 どうしちゃったんでしょうと不思議がっている彼女は、小首を傾げて眉を寄せた。
 きゅっと寄った眉間。
 彼女の顔に刻まれためずらしい皺は、次の瞬間ものの見事に解かれることになる。

「開けろ」

 居間がしん……となった。
 聞き間違えようもない冷たい声が、扉の外から聞こえてくる。
 それぞれまったく違う表情で固まった友人番。
 動いたのはもちろん彼女だった。訝しげだった表情をぱっと明るく塗り替えて、黒髪の友人を押しのけた挙句、扉を自らの手で開いてしまう。

「――バトさん!」

 うれしそうにかの人物の名を呼ぶ彼女。彼女に呼ばれた怖い怖い高士のお兄さんは、不機嫌そうな表情で何のてらいもなく「ああ」とだけ言葉を返した。
 目の前の光景を見届けたローグは、一人虚しく天を仰ぐ。
 憐れな友人の姿に、いま本当に必要なのは傷薬だったのかと思い至る。

 女神はローグに必要以上の加護を与えたことに気づき、大急ぎで回収をはじめたのかも……と、そんな考えが頭をよぎっていった。

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