蒼天のかけら 幕間 真導士の休日
真導士の休日(2) 〜不機嫌な人〜
緊張のあまり、伸ばしていた背中がびきびきと妙な音を出している。
とにかく行儀よく。
はしたない真似など絶対にできはしない。
自分はいま、とてつもなく緊張している。まだ短い人生と浅い経験の中、ここまでの緊張を覚えたことなどそうはない。
家から出た途端、転送によって飛ばされた。
飛ばされた先は聖都ダールのどこかだ。何故ダールだとわかるかというと、パルシュナ神殿にある"鐘の塔"が見えたからである。急な出来事に動転していた自分を尻目に、バトはさっさと一軒の料理店に入ってしまった。
置いていかれては堪らないと、大急ぎでその背中を追いかけ……入店してから後悔した。
この人の金銭感覚が、自分とは大いにかけ離れていると知っていたはずなのに。自分の不注意を、内心で厳しく責めるはめになった。
ふかふかで品のいい絨毯が、これでもかと敷き詰められている店内に、恰幅の良い一人の男が立っていた。
バトを見るなり腰を折ったその男は、たぶん店の支配人だ。
目線だけで「すべて承知しております」と放った支配人は、右手で向かう先を示した。堂々と店を歩くバトの後ろを、縮こまりながらこっそり歩き、日当たりの良い小部屋へと辿り着いた。
室内のしつらえを確認し、途方に暮れた。
自分は、いったいどこの王宮に紛れ込んでしまったのだろう。金銀から成る装飾と、見事に咲き誇る花。
開け放たれたガラス扉の先には、えらく手の込んだ中庭が見えている。中庭に設置されている噴水の音が、室内にこだましていて実に清々しい。
部屋を茫然と見ていたら、支配人が声を掛けてきた。
「お預かりいたしましょうか」
演技者かと思えるような台詞に、どうしてか頬が熱くなる。状況に対応しきれていない頭は、これで完全に混乱してしまった。
……どうしよう。
この人の言っていることがわからない。いったい何の話をしているのだろうか?
口を半開きにした情けない状態で硬直した自分に、支配人は微笑んだ。
(おやおや、これは愛らしい)
そう思っているのが丸わかりな笑顔は、心をさらに乱れさせた。混乱のし過ぎで眩暈が起きそうだった。
窮地を救ったのは、青銀の真導士である。
「サキ、ローブを脱げ」
凍えた指令に、はっとなる。
真導士のローブは、里にいる時。もしくは任務中にのみ着用する。
私用で聖都に降りる時は、必ずローブを里に置いていかなければならない。
いきなりのことで、規則を破ってしまった。緊張で上手く動かない指を急かしに急かし、白のローブを脱いで、おろおろとしながら支配人に手渡した。
恭しく受け取った支配人は、部屋の入口で固まっていた自分を促し、既に椅子に腰かけていたバトの正面に座らせる。
「本日はどのように……」
「任せる」
「承知いたしました」
不機嫌な真導士とわずかばかりの会話を交わした支配人は、音もなく歩き、一礼してから退出をした。
「あの、バトさん……ここって」
「飯屋だ」
そんな馬鹿な。
ここは"飯屋"と称していいような店ではない。断じてない。
冷や汗をかいている自分とは対照的に、バトは涼しい顔をしている。
「食堂で食べればよかったのでは……」
言えば不機嫌さが濃くなった。
「冗談ではない。不快な連中だらけの場所で、飯など食えるものか」
バトは相変わらず高士嫌いの高士であるようだ。
「でも、こんなに高そうなお店ですよ」
座っているだけでそわそわしてしまう。室内のすべてが格調高くて落ち着けない。
「それがどうした」
心底困っているのに、青銀の真導士は飄々としたもの。
恨みを込めた視線を送ってみるが、効果はさらさらだ。じっとりと視線を送り続けている中、違和感を感じた。
(あれ?)
そういえば。
今日のバトはローブを羽織っていない。高士のローブを脱いだ青銀の真導士は、結構くつろいだ格好をしている。
装飾一つない白のシャツは絹地であるようだ。
部屋の様子と妙に合っていて恨めしさが増す。このような場所であるというのに、椅子の上で足を組み、背もたれに寄りかかっている。長い足を象っている黒茶スボンも、何だか品がいい。
「バトさんって、貴族ですか?」
思いきって聞いてみた。
自分なりに勇気を出した質問は、ものすごく呆れた顔によって迎えられてしまった。
「お前……、目が悪いのか」
むう。
そこまで言わなくてもいいではないか。しかしこの反応で真実がわかった。
バトは貴族ではなかったらしい。
「……では、どうして高いお店に入るのですか?」
ちょっと口を尖らせて聞く。
「安全だからだ」
目を瞬いた。疑問が頭の上を旋回している。
理解していないと感じたらしい青銀の真導士は、船の実習であったように、無駄のない言葉で答えを紡ぐ。
「里の外で話せぬことがあるように、里の中で話せぬこともある。ゆえにこういった場所が必要になるのだ。上流の輩が利用する店は総じて口が固い。状況に応じて場所を変えることを覚えるのだな」
バトが説く生きた知識に、なるほどと肯いた。
「まさか真導士の給金が、放蕩するためにあるとは思ってないだろうな。給金には、里の外で活動する資金も含まれている。布や髪飾りで使い果たすなよ」
「……そんなことしてません。買い物なんて滅多にしませんもの」
気まずい沈黙が落ちた。
唐突にやってきた居心地の悪い世界。冷や汗が背中を伝う。
いきなり黙った青銀の真導士は、まじまじと自分を見た。顔を見て。頭を見て。服を見て……ややあってから口を開く。
「お前、神学校の出か?」
「違います」
何を言いたいのか読めたので、むっとした声を出す。
「親が借金でも抱えているとか」
「借金などありませんし、親もいません」
飾り気がなくて悪かったですねと、つんけんしておく。年頃の娘への配慮をかけらも持ち合わせていないバトには、このくらいの対応でちょうどいいだろう。
「孤児だったか」
「ええ、山に捨てられまして――」
言ってから、あっと焦った。いつだったか村のお婆さんに注意されたことを思い出す。自分が気に掛けていない事柄も、悪い想像や、悲しい想像をさせる言葉を選んではいけない。我が事のように心を痛める人もいるのだ。
「そ、その、ちゃんと村長に拾ってもらったので、特に苦労はしてませんよ」
もごもごと付け加えた不自然な言葉を、バトは何も言わず聞いていた。
気まずい沈黙が再びやってくる。
噴水の水音だけが、清々しく通っては流れて消えていく。