蒼天のかけら  幕間  真導士の休日


真導士の休日(8) 〜終わらない一日〜


 落ち着け、落ち着けと念じ、水を一気に飲み下す。

 波乱に満ち満ちていた今日という日にも、夜はやってきた。
 せっせと酔い覚ましの薬湯を拵えた後、ヤクスは自宅へと戻って行った。
 邪魔な男が残していった籠は、とりあえず彼女の部屋に封印してある。腹立たしいとしても捨てるわけにもいかない。せめて、いまこの時だけは、彼女の視界に入らないようにと苦渋の決断を下した。

 来客のすべてが帰った我が家には、自分と長椅子の上にいる猫だけしかいない。
 今朝まで逆毛を立てていた琥珀の彼女は、マタタビを嗅いだ猫の如く、長椅子の上でごろごろしている。こうなってしまった経緯には、大いに含むところがある。しかし、これは好機だ。とにもかくにも今夜中に、奇妙な亀裂を埋めてしまおう。
 腹を見せて喉を鳴らしているいまなら、さして難しい話ではない。

 深呼吸を一つして、炊事場から居間に移動する。
「ヤクスが薬湯を作ってくれた。飲んでおいた方がいい」
 平常心を心がけたつもりだったけれど、どうだろうか。
 顔には出さないように。それでも細心の注意を払い、彼女の様子を窺った。
「……嫌です」
 ぐずぐずと返事をしたサキに、警戒の色は浮かんできていない。
 これならば、いける。
「こら、我儘を言うな。明日ひどい目にあっても知らないぞ」
「だって……。口がせっかく甘いのに、苦くするのは嫌です」
 子供のように拗ねて、嫌だ嫌だと首を振る姿に、ついつい頬がゆるむ。
「サキ。少しだけ我慢だ。そうしたらいいものがある」
「いいもの」
 緩慢な返事に、実家にいるちび共の顔が浮かんだ。駄々っ子には甘いもの……世の鉄則だろう。
「果物と焼き菓子。全部飲めたら好きな方を選んでいい」
「本当に?」
「ああ。だから早く飲んでしまおう。起き上れるか?」
「はい」
 長椅子にちょこんと座った猫の隣に、ゆっくりと腰掛ける。

 逃げる気配はなさそう、だな。

 薬湯には、主治医の助言通り蜂蜜を垂らしてある。これならば飲み易くなっているはず。
 そうっとそうっと……一口だけ味を確かめた彼女は、ぼんやりとした表情に笑みを重ねる。
「甘い……」
 くすくすと笑い出し、薬湯を手にしたまま自分の方へとしな垂れてきた。
 予想外の行動。
 とてもいい傾向だ。
「飲み易いだろう」
「うん」
 屈託のない返事に鼓動が跳ねる。
 丁寧さはサキの特徴。しかし、他人行儀にも思えていた。心の強張りのようにも感じられていた言葉の壁が、一気に取り払われる。
 表情も仕草も魅惑的に思え、彼女のすべてから目が離せない。
 とろとろと溶けた蜜が、まるで輝尚石のようにうるみながら輝いていた。

 深呼吸を一つ。
 先日の二の舞だけは避けなければ。同じ轍を踏むのは間抜けが過ぎるだろう。

「ローグ」
 酔っぱらいの猫は、密かな努力も知らず、肩口にすりすりと寄ってくる。
 平常心。とにかく平常心だ。
「何だ」
 言葉を探すように口ごもったサキは、上目遣いでこちらを見ていた。
 不安そうな表情に、自分の中で葛藤が巻き起こる。
「……怒ってますか」
 もう元に戻ってしまった。やはり心の壁を崩すのは相当難しいようだ。少しばかりがっかりしてから、言葉の意味を考える。
 さて、どちらの意味だろうか。
 勝手に男と出掛けたこと。もしくは、ここ二日の疎遠な態度。後者であれば、自分の方に非がある。だがサキの性格上、こちらの方で悩んでいることも十分あり得る。
 自分の痛みに無頓着。
 ヤクスの指摘は、正し過ぎるくらいに正しい。
「それは俺が聞きたい。……まだ、俺が怖いか?」
 一呼吸置いて、彼女が目を伏せた。
 やはり駄目かと落胆しそうになっていれば、かすかな声で彼女が言う。
「怖かったけれど、寂しい……」

 まいった。

 これほどの誘惑をどう堪えろと言うのだ?
 寂しがりの猫が、目の前で鳴いている。理性が邪魔だと思ったのは今日が初めてだ。
 やけを起こしそうな自分を宥め、琥珀の猫を膝に乗せる。
「困った相棒殿だ」
「……お互い様です」
 自分の胸元で、もごもごと言っている彼女。
 湧いてきたぬくい感情に身を委ね、目を閉じた。香るリテリラに、ただ酔いしれる。
 久々の充足感。
 ささやかなぬくもりと重みを感じつつ添え髪を梳かし、指の間を流れる金糸の感触を味わった。頭の片隅に冴えた色がちらついているが、意志の力で抹消する。

 ……不愉快で思い出したくもない。

 細い手が包んでいた薬湯のカップを手にし、脇机へと除けた。
 全部飲んでいないのにと、また不思議そうに首を傾げたサキの額へ、そっと口付けを落とした。
 もう瞼が限界を訴えていた。今日は休ませようと心に決め、彼女を部屋まで運ぶことにする。肩口で「果物は?」と声がしたのだが、どうにか誤魔化しつつ寝床に乗せた。
 眠そうに目を擦っているサキを、ゆっくりと横たえてから掛け布で覆う。

「――お休み」

 言って部屋から出ようとした自分の袖を、引っ張る力がある。必死なこちらの気持ちなど、彼女の知るところではないということか。寂しがりの猫の呼び掛けに、振り向いて返事をする。
「行かないで」
 また、大きく鼓動が跳ねた。
 焼き切れそうな理性を、気力だけで支える。
「横になって目を閉じていろ。すぐに眠れるはずだ」
「一人ぼっちはいや」
 蜜色にとろける輝きに、視線が吸い寄せられる。
 せめて眠るまで傍にいて欲しいと乞う相棒。そこで、荒療治では効果が出なかったのだと理解した。
 この無防備さはどうしたら治るのだろう。煩悶しながら、今夜ばかりは仕方ないと椅子に腰を下ろす。彼女が眠るまで時間はかからない。震える金の睫毛が言外に告げていた。
 彼女が寝床に入ったことを確認したジュジュが、いそいそと掛け布を潜っていった。
 白の獣の動きが可笑しかったようで、サキはまたくすくすと笑っている。この笑い上戸めと、心でからかう。睡魔は、瞬く間に彼女へ襲いかかっていった。
 とろけた蜜色が、いまにも瞼の裏に飲み込まれそうになっている。
 これでは眠りづらいなと思い髪留めを外してやる。はらりと解かれた前髪は、彼女の顔に金の影を落とした。
 ランプの光に照らされて、白い肌が視界で映える。

 儚い。

 透けるような存在感を確認して胸の奥で苦みが沁みた。ついに眠りに落ちたサキを、苦い気持ちのまま見守る。
 最近の自分は、やはり疲れが溜まっているようだ。
 気力の整い方が以前よりも遅くなっている。今夜はもう寝てしまおうと決め、席を立つ。音を立てずに動いたのだが、敏感に気配を察知した蜜色の猫が、むくりと起き上り。手をつかんで引っ張ってくる。
(本当に仕方のない)
 苦笑しつつ腰を屈め、もう一度座りなおそうとした自分の身に、予想していなかった出来事が起きた。

 唇に柔い感触。

 目の前には閉ざされた瞼を縁取る、薄い金の睫毛。
 心臓が、尋常でない速度で動き出す。衝撃と血潮が、怒涛の勢いで全身に流れていった。
「お休みなさい」
 サキは硬直している自分を残し、ふわりと微笑んでから眠りの世界に旅立ってしまった。残された自分は、寝息が響く彼女の部屋で彫像となる。
 しばらくして我に返り、慌ただしく自室へと駆け戻って扉を閉め。そして、入口で座り込んだ。

 わかってない。
 彼女は絶対にわかっていない。

 一大決心をして伝えた先日の言葉は、何一つ彼女には届いていない。そうとしか思えないほど無防備だ。
「ああもう、本当に儘ならない……!」
 整いそうにない気力を抱えながら、一緒に頭を抱えた。
 娘自ら行動を起こすなど、常識の範疇にはない。少なくとも自分の知っている常識には存在していなかった。
 恥らい深いと思っていれば突然大胆になる。
 あまりに無防備で、あまりに破天荒。
 自由な恋人に、これからずっと振り回されていくのだろうか? 楽しみなような、怖いような……と考えてみるものの、いまの気分を誤魔化せそうにない。
 頭を抱えている腕に、耳の熱さが伝染していく。こんな情けない姿、ヤクスに見せたら何と言われるだろうか。



 悩む雛鳥は、眠れない夜を一人悶々と過ごす。
 長い長い夏の一日は、まだまだ終わりそうになかった。

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