蒼天のかけら  幕間  微睡みの真導士


微睡みの真導士(1)


扉を見た。
視線を一度戻して、瞼が閉じていることを確認し、もう一度見る。
次こそ行けるだろうか。
今朝から数えてもう六度目。膝に置いている両手に緊張が走る。自分の体温を感じるのは久しぶりだったが、感動をしている場合でもなかった。
規則正しい呼吸を、心の中だけで追いかける。
三、二、一……。

いまだ。

音もなく立ち上がる。
大気を揺らすことすら無かった。自分では自信があったのだけれど、どういう理屈か勘付かれてしまったようだ。
指先に温かい感触。緊張のせいで先の方だけ熱が欠けていた皮膚の上に、包む手からやさしい温もりが伝わってくる。
サキにとって幸せとしか感じられない温もり。しかし、この時ばかりは移された熱を困惑した心地で受け取った。
「……どこに?」
力を失った黒い瞳が揺れている。
また、駄目だった。
気付かれてはいけない落胆を、感情の壺の中へぎゅうぎゅうに押し込めて、笑顔を作る。
「水を取ってきます。喉が渇いてしまいました」
自分の指先を温めていた手がそろりと離された。熱の余韻を、右手でゆっくりと擦りながら炊事場に向かう。
胸にうずく場所がある。
大切な気持ちが仕舞われている場所に、燻ぶったものが溜まり込んでいる。炊事場に立ったサキは、言霊を呟いて輝尚石から水を出した。勢いよく流れ出た水音の影で溜まり込んだ煙を吐き出しつつ、グラスに水を注ぐ。
特に求めていなかったので一口だけ含んで、喉を潤した。
困った。
本当に困った。
長椅子でぐったりと横たわっている彼からは見えない場所で、サキは眉根を寄せて思案する。

昨日は一日ゆっくりとしていた。知らぬ間に外出禁止令なるものが出ていたらしく、学舎に行く必要がなかったからだ。自分が出掛けている間に何があったのか。ローグがはっきりと答えてくれないものだから、サキはいまでも霞みの中だ。疲れ切ったローグとジュジュの様子から、何かがあったことは明白なのだが。ローグの頑なな態度を見て、サキは問い掛けることをやめてしまった。質問を重ねた自分への返答が「聞くな」ではなく、「聞かないでくれ」であったから断念してしまった。黒に灯る炎が、とても切ない色をしていたので心が折れてしまったのだ。
細く揺れる黒の光。常にあふれていた真力は、気をつけて探らなければ触れることすら難しい。
ジュジュは一日で回復してくれたのだが、ローグはいまも長椅子に沈んでいる。体調が悪いのかと思い、額に手を当ててみたが平熱であった。本人いわく、だるいだけなのだそうだ。
ならば取るべき対策はたった一つ。そう考えて自室で休むことを勧めたら、これはお断りをされてしまった。頑固にも長椅子でいいと言い張り、朝食を食べた後からずっと寝転んでいる。
それだけでも十分おかしい。だがそれ以上におかしいのが彼の自分に対する態度だ。
半分だけ水が入ったグラスを持ちつつ、長椅子の手前に設置した椅子へと帰る。炊事場の入口にいる時から、黒が自分の姿を追って来ているのは知っていた。水に集中している振りをして、黒の視線から目を逸らす。与えられた過剰な僥倖は、時として自分を追い詰めてくれる。
視線から逃げていても、湧き上がる羞恥からは逃げられない。
頬が熱い。
耳も熱い。
椅子にすとんと腰かけた。脇机の上にグラスを置き、ちょっとだけ悩んでから、水で冷やされた右手を彼の頬に乗せた。
黒が細められる。右手が彼の左手に捕らわれた。
ローグが浮かべる微笑みの力はすさまじい。見ているだけで心音がとくりとくりと響いてくる。
「お帰り……」
甘みを帯びた低い声が、手を伝って心に響く。
うっとりと目を閉じたローグは、その格好のまま微睡みはじめた。恋人からの甘い束縛を解き放つこともできず。サキは上気した頬を左手で抑えて誤魔化すことにした。

高まった心音は、ローグの寝息を聞いているうちに少しずつ納まってきた。正常な流れに戻った血潮。残ったのは燻ぶる熱と、甘美にうずく痛み。
彼と送る日々はとても目まぐるしい。たくさんの彩りをサキに与えてくれるから、たまにちかちかと目が眩む。感情が豊かなローグは、自分への想いも真っ直ぐに見せる。慣れてきたと思っても唐突に見せる別の一面が、サキを慌てさせるのだ。
今日の彼はそれが一段と強い。おかげ様で今朝から胸が高鳴りっぱなしである。ぐったりとしているローグに自覚を促すのは不可能だ。サキにできることといったら気力を整えて、受け入れることくらい。

こんな風に……甘えられるのは初めてだ。どう対応するのが正しいのか。満足そうにしているけれど、これでいいのだろうか。どくどくと鳴る鼓動を感じながら必死になって考える。
ちょっと席を外そうとしただけで黒の瞳が盛大に揺れる。彼に残されているわずかな真力が、激しく波打つ気配がする。元気を失った彼のために、井戸水を汲みに行こうとした時なんて大変だった。ふらふらと覚束ない足取りのまま、外まで追い掛けてきてしまったのだ。一人で外に出てくれるなと懇願された挙句、目的も果たせず家に戻された。
眠る恋人の顔を見ながら溜息を吐いた。
まったくもって心配である。外出が禁止されていることは知っているが、規則に反してでもヤクスを呼びに行くべきだ。そう思って機会を窺っているのだが……。動く度に目を覚ましてしまう。
本当にどうしたのだろう?
人のことよりも、自分のことを案じてくれればいいのに。

そう思ってまた一つ溜息を吐く。

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