蒼天のかけら  幕間  微睡みの真導士


微睡みの真導士(3)


首筋に柔い温もりが触れた。
反射的に吐息を漏らす。掴める場所を探して、彼の夜着をぎゅっと握る。
「消えてきたな」
口付けた個所を指がなぞっていく。主治医が断言した通り、治りは順調なようだ。
火照った顔をローグの夜着に擦りつける。
急に態度を変えられてしまうと、流れに着いていくのがやっとになる。自分こそ海の天気のようではないですかと抗議をする。きつく抱きしめてきたローグは、そうかもなと低く笑った。

まだ、どうしても慣れない。
恋人というものを自分は、よく理解していないようだ。自分が知っている物語の恋人達は、想いを通わせ合ったところで結末を迎えている。その後のことは考えてもみなかった。好きだと言われて、好きだと答えて。それからどうすればいいのだろう?
時間が欲しい。
ゆっくりと考える時間。
一つ一つ、吟味を重ねて、自分の中にしまい込む時間が、サキには必要だ。

再び首筋に唇が当てられた。身を竦ませて目を瞑る。柔らかさを感じる場所から、熱が移ってくる。
普段、自分が心臓だと思っている位置よりも上に鼓動が生まれている。驚いた心臓が、居場所を間違えて喉の下に来てしまったのかもしれない。激しい高鳴りが呼吸を乱す。息が苦しくなってきた。跳ねて飛んでいる鼓動を鎮めなければ。使命を帯びた左手が自分の胸元を握った。
首筋から離れた唇が、頬に移動する。やさしく触れて、すぐに離れて……耳に名前を注いでいく。
頭の奥が痺れて、じんとした痛みを発した。
ローグに名前を呼ばれるのは好きだ。確かにここに在ると信じられる。

もっと呼んで。ちゃんと抱き締めて。
何とも知れない自分の形を、その手で掴んでいて――。

「泣き虫」
「……え?」
ぱっと目を見開いた時、頬に雫が散った。吃驚してしまい急いで頬を拭った。拭っても拭っても溢れてくる雫に苦戦する。
「あれ」
おかしい。悲しくないのに止まらない。手布を出そうとポケットに手を入れる。
取り出した手布を広げている最中に、またもや顎を捉えられ、黒の瞳の中に投げ入れられた。
「怖がらせたか?」
目を細めたローグに向かってかぶりを振った。
「じゃあ何故、泣く」
「わかりません」
答えた瞬間、先ほど痛みを覚えた頭の奥。正しくは真眼の奥の方で、ぐるりと何かが回った感じがした。
違和感が旋回しながら馴染んでいく。自分と何かが溶けあってゆっくりと回っている。怖いと思う気持ちと、懐かしいと思う気持ちで自分の中が乱れている。
変ですねと言って、手布で顔を覆った。拭いても後から流れてきてしまう。いっそのこと出口を塞いでしまえと、瞼にぐっと押しあてた。

瞼の裏で、ぐるぐると回る。
暗く塗り潰された瞼の裏に、ちらりと花が姿を現した。透き通る幹の上に、朝焼け色の花が咲いている。
見たことがある。
自分はこの樹を知っているのだ。
背中が震えた。
羽が眠る個所にうずきを感じた。脈に合わせて蠢いている。
一度、解放された力。どう使えばいいか教わらずとも知っている。出そうと思えば出せる。仕舞おうと決めれば仕舞える。
……飛ぼうとすれば、きっと飛べるだろう。
怖い。
自分が人でないと知ってしまった。知ったことすら罪だと思えた。
その上で、人として生きようとしている。友を、師を欺こうとしている。禁が解けた時、当たり前のように日常へと舞い戻ろうとしている。
許されるのか?
許してもらえるのか?
女神パルシュナは、この自分を裁くだろうか。
熱が全身を包む。与えられる幸福と温もりを手放したくないと切に願う。
背中に手が添えられる。撫ぜる手の動きに導かれて、ぐるぐると回っていた何かがゆっくりと眠りについた。
「……ローグの手はいつも温かいですね」
そうかと応じた彼に寄りかかる。
「ねえ、ローグ」
「何だ……?」
「わたし、眠くなってきちゃいました」
低い振動が、彼の身体を伝ってサキに流れる。
「昼寝でもするか」
眠りの病は治ったけれど、眠い時はどうしたって眠い。今日は猫になってしまおうと決めて、こくりと肯く。
自分にはたくさんの時間が必要だ。
考えなければならないことが、両手からこぼれそうなほど積まれている。
だけどその前に、力を蓄えておくべきなのだ。
過ぎ去ったかに見えた嵐は、ただ凪の時が訪れているだけ。
また戻ってくると、サキはちゃんと理解している。
……でも、いまだけは。彼と静かに過ごさせて欲しい。

ふわりと身体が舞い上がる。
落とされてはたまらないので、首にしっかりと腕を回した。彼が歩く度、前髪がはらはらと揺れて額にいたずらをする。

――そういえば、髪留めはどこに行ってしまったんだろう?

問おうとして、すぐに忘れた。ころりと転がった寝床の中、二人は手を繋いで眠りにつく。
眠りの中で、サキは懐かしい夢を見た。
どこかの古木の下で、待ち望んでいた人が自分を訪ねてくる夢。
そしてこれも、すぐに忘れた。



忘れていたことを思い出すのは、それからずっと後のことだった。

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