蒼天のかけら 幕間 夏の真導士
夏の真導士(1)
サガノトスの夏は長い。
連日の暑さを哀れと思ったのか。はたまたパルシュナも夏バテなのか。ここ最近は女神の試練が止んでいた。
穏やかな夏の夜。涼しい真術に囲まれながら一冊の本を手にしている。
おもしろいからと薦められた銀縁だ。
ユーリの大のお気に入りだというその本は、自分でも読めるような平易な文字が並んでいる。それもそのはずで、ユーリが十の時に買い与えてもらった本である。
文字の読み書きに対する苦手意識を、どうにかしようとしている相棒の入れ知恵は、こんな形になって自分へと渡ってきた。
ユーリらしいと言うべきか。本の中では、お姫様と王子様がすったもんだを繰り広げていた。
それにしてもこのお姫様、かなり鈍いとやきもきする。
王子様がお姫様を好きなことは一目瞭然。周囲だって知っているし、自分にもすぐわかった。知らないのは彼女だけで、すれ違ってばかりいる。焦れったくてしょうがない。
お姫様も真眼を開いてみてはどうだろう?
そうしたら王子様の気持ちを理解できるはず。
額を撫でながら頁をめくって文字を追う。
章が切り替わったようだ。すれ違って喧嘩をしてしまったお姫様は、部屋の中で泣いている。そこに侍女がやってきた。この侍女、なかなかできる娘なのだ。今度は何の助言をするのかと、期待しながら読んでいく。
何で結婚相手があの王子なのだと嘆くお姫様。初対面なのに花の一つも持ってこなかった。もっとやさしい相手はいくらでもいるだろう。国のためとはいえ、こんな結婚はお断りである、と。
お姫様の物言いのせいで、王子様の顔がクルトになった。お姫様とユーリがあまりに似ているからだ。
こちらの期待とは裏腹に、侍女は何も言わなかった。がっかりである。彼女なら何かしてくれそうに思っていた。
また、次の頁へと移る。文字へと視線を落とす前に扉を見た。ローグはまだこない。兄弟からの手紙に返事を書くと言っていた。先に寝ていていいとも言われたけれど、まだまだ眠くなかった。
場面が変わった。薔薇園の中で、お姫様がお茶をしている。
そういえばサガノトスにも薔薇園があるのだ。一度は訪れてみたい。けれども気が引けている。管理者があのムイ正師だからだ。下手に手折ってしまったら、懲罰房に放り込まれてしまいそうで……。どうしても覚悟が決まらないのだ。
すっかり気落ちしているお姫様。その彼女に襲いかかる黒の影。――刺客だ。
絶体絶命の危機である。
そこにやってきたのは王子様。待っていましたと前のめりになる。お姫様をかばって負傷した王子様は、それでも果敢に刺客と切り結ぶ。
死闘の果て、ついに王子様が勝利した。やるではないか、クルト。
王子様は手についた血を拭ってからお姫様に差し出して「ご無事ですか」と声をかけた。感動の結末かと思いきや、まだ本の半分だ。
……おかしい。絵本ならば"めでたし、めでたし"と入る頃合なのに。
夜、お姫様は窓辺に佇んでいる。昼間の余韻が抜けていないのか、眠れないらしい。
そこに侍女がやってきた。お姫様は言う。あの王子の眼差しが、自分を貫いていったと。
あれ……と思った。
お姫様は変なことを言っている。寂しい気持ちが大きくなったのとは違うのか。
侍女がお姫様を慰める。そして語った。「姫様は、恋をなされたのです。あの方に、心を射抜かれたのです」と。
ますます変である。
恋はそんなに鋭い形をしていなかった。柔らかくて、あたたかい気持ちだ。一緒にいると寂しいながらうれしくて、一緒にいないとすごく寂しいものである。
射抜かれるなんて、痛くて大変そうだ。
思わず唸る。
これは子供向けだからだろうか?
ああ、でもおかしい。子供向けなら、わかりやすい話になっているだろう。
うんうんと唸っている時、扉がそっと開かれた。
「起きていたのか? ……どうした、そんな顔をして」
低い声の問いを受け、物語の世界から一気に引き戻される。
「……本を読んでいまして」
何でか少し恥ずかしく、声が小さくなってしまう。
「文字を読む時は、いつもそうだな。そろそろ寝ないと明日が辛くなる。朝から掃除をするんだろう」
そうだ。
そうだった。
明日は友人達を招いてのお茶会だ。早起きしなければ、隅々まで手を入れられない。
「もう眠ります。……ローグは?」
「あと少しで書き終わる。早く返さないとうるさいから」
定番のしかめっ面になったローグは、部屋の灯りを収束させ、枕元の一つだけにして部屋を出ていった。
書き終わったらきてくれるはずだ。だから先に寝ていよう。
気になる物語の合間にしおりを差し込んで、寝床へと向かう。
明日はきっと楽しい一日になる。期待で胸を高鳴らせ、静かに目を閉じた。