蒼天のかけら  幕間  夏の真導士


夏の真導士(6)


「これからですか?」
 突然の申し出に、ちょっと高めの声が出た。高い声に導かれてか、ポケットの鈴も高く鳴る。
「ああ、これから」
 炊事場の入り口にもたれかかっているローグは、少年のような笑顔をしている。
 いたずらの気配はない。とはいえ急な話なので、どうしたのかと疑問ばかりが湧く。
「泳げると聞いていたのに、一度も行ってない」
 たまに泳がないと、身体がなまりそうだと彼は言う。港町出身の彼にとって、樹木だらけのサガノトスは勝手が違うのだろうか。
「もう夜ですよ。明日にしましょう」
「夜だからいいんだ。昼間だと誰かしらいるだろう。そうしたらサキが泳げない」
「わたしも泳ぐのですか?」
 もちろんと頷いたローグは、また屈託なく笑う。
「泳げません。泳いだことがないと言ったでしょう」
「ああ、だから練習してもらおうかと思ってな。風に乗る修行の一環だ」
「関係あるのですか?」
 問えば、自信ありげに大きく頷いた。
「泳ぐのと、風に乗るのは感覚的に近い。コツをつかむのにはうってつけだ。それに、真導士の任務で泳法が必要になるかもしれないだろう。泳げるに越したことはない」
 言われてみれば必要な気がしてきた。乗せられているような気もしているけれど、泳げた方がいいのだろう。
 悩みながらも了と返した途端。黒髪の相棒は、早く早くと急かすわがまま小僧となった。少年のようになったローグをいなすのも大変だ。仕方なしに片付けてしまおうと思っていた皿を放棄し、家を出ることになった。



 満天の星空と、一面に広がる湖。
 見慣れない世界の中、手を引かれて進む。
 頬を撫でていく風は、しっとりと涼しい。水辺特有の匂いが、辺りを埋めている。二つの足音と砂利がこすれる音。それから小さな鈴の音。
 半歩だけ前を行くローグは、上着もローブも羽織っておらず、街中で見かける荷物担ぎの人と同じような格好をしている。ズボンも短い丈のものに履き替えているので、風邪をひくのではと心配になる。しかし、本人は一向に気にしていない。
 カルデスの海で育った彼にとって、きっちりと服を着込んでいる方がめずらしいとのこと。
「夏場は荷が盛大に動くからな。着込んでいると仕事にならないんだ」
「お腹、冷えませんか」
 ないな。
 言い切った彼の横顔を見上げる。さらさらとゆれる黒髪の合間に、やさしい炎が視えていた。
 ころりと鈴が鳴る。
 一緒に心臓も高鳴った。気力の乱れを察知して、そうっと息を吸い込んでおく。

「気に入っているのか」
「――え?」

「鈴だ。昨日からずっと持っている」
 急に話題を変えるからびっくりしてしまう。とくとくと流れる血潮の気配を、どうにか覆い隠したいと思った。
「ええ。鈴に魔除けの意味があるなんて初めて知りました」
「貴族は意外と迷信深いからな。まあ王家自体が真術と近しいから、そうだと言われれば頷ける。ヤクスは苦手と言っていたけれど、鈴くらいは大丈夫みたいだ」
 医者と迷信は相性が悪い。そうかと言って、お守りを否定したりはしなかった。祈りと妄信は違うとも言っていた。
 新たな友から贈られた祈りの気持ち。小さい心の端っこが、やさしい音色を奏でている。
「レアノアも任務がなければ、ずっと持っていると言ってたな」
「音の届く場所には魔が近寄らないんですって。ヤクスさんの家にある鈴も、レニーがつけたそうですよ。扉につけていると家に悪いものが入らないから。でも、ヤクスさんが相当いやがったみたいです」
「そうなのか? 意外だ」
 のんびりとした友人にはそんな一面があるらしい。ローグも驚くくらいの、かなりめずらしい一面だ。
「医者の家は開放されているべきだと……。病気も魔の一種と言えばそうなのでしょうね。"病魔を払うためにいるのに、病人を追い返すような飾りをつけたくない"と言っていたそうです」
 ローグはあいつらしいと笑みを浮かべた。ゆるい風が、自分達を撫でていく。
「でもね。レニーも負けなかったみたいです。"家に入るだけで、少しでも病気が払えると思えばいいじゃない。身体が弱まっていると心も弱まる。邪神はいつだって隙を狙っている。病人の中に入った邪気を払えば、貴方は病気に専念できるでしょ"って」
 静かな湖に、ローグの笑い声が響いた。
 飾り気がなくて、まっすぐで。実にローグらしい。
「どれだけ口が回るんだろうな。まるで豪商のようだ。商売敵でなくて本当によかった」
「貴方なら勝てるのでは?」
「さあ、どうだろう。うかうかしてるとまずいかもしれん」
 誰かとこうやって、何の変哲もない話をすることに憧れがあった。食堂からの帰り道。ぽつぽつとあった家々から、やさしい声が漏れてくるたび、羨ましく思っていた。

 村長は。
 育ての父は、とても寡黙な人だった。そしてとても実直な人だった。あの小さな村に住む人々のため、労を惜しまない人だった。老いた身体で、呼ばれればすぐに出かけていく。そんな人だったから、毎日の出来事を語り合う時間は少なかった。
 繋いだ手に力を込める。
 寂しくて堪らなくなったから。
 ちゃんと繋がっていると確かめたかったから。
 不思議なもので。うれしいと感じることが多くなってから、寂しいと感じることが増えてきた。幸せだと思えるようになってから、悲しいと強く感じるようになってきた。
 やさしい時間ばかりではないけれど、それでも大切だと思うのだ。

 湖畔をしばらく歩き、大きな岩が転がる場所に出た。
 "迷いの森"の岩場を思い出して、彼の手を強く握る。
「そう怖がるな。最初は足をひたすだけでいい」
「足って……。靴はどうしたら」
「もちろん脱ぐ」
「あ、足布は……?」
「着けていたら水を吸って泳ぐどころではなくなる。その服は真術がかかっているから平気だ。靴も足布も倉庫のものなら大丈夫だが、違うなら脱いでおけ」
 ローグは、当然であると言わんばかりの態度のまま、袖なしの服を脱ぎ捨ててしまう。
 さらされた肌をまともに見てしまい、顔がかっと熱くなる。
「そんな恥ずかしい真似、できるわけないでしょう!」
「だから夜を選んだんだ。俺だったら気にするな。サキの足は見たことがある。帽子も取っておくといい。水に入ったら流されるから」
「ローグ!」
 厳しく声を荒げてみたのに、彼は黒い笑いで応じてきた。
「……大丈夫だ。髪も見たことがある」
 どこか得意げなローグは、とんでもなく悪い顔をしている。すっかり忘れていたけれど、彼は悪徳商人なのであった。
「家を出る時に、言ってくれればよかったでしょう」
「すまんな。頭から抜け落ちていた」
 嘘だ。
「破廉恥です」
「怖い顔をする」
「……わたし、怒ってます」
 言えば大げさに驚いたふりをする。
「それは困った。恋人の機嫌を損ねたとあっては男の恥だ」
 元気が復活してしまった悪徳商人殿は、整った顔を苦悩に沈ませて言う。相変わらずの見栄えである。
 しかし、もはや誤魔化されるような自分ではないのだ。
「最近、聖都ダール風も悪くないのではと思ってきました」
「……サキ」
「食べ慣れればおいしいのかもしれません」
「わかった。俺が悪かった。ちゃんと謝るからダール風はなしにしてくれ」
「では、誠意を見せてください」
 手は腰に。
 態度は大きく。胸はやや反らせておき、顎を上げる。怒っているのだから、このくらいはしておくべきだ。
 対するローグは、右手を顎に当てて思案をはじめた。
「まだ、内緒にしておこうと思ったのにな……」
 そう言ってから、真円を自分の足元に描き出す。

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