蒼天のかけら  幕間  夏の真導士


夏の真導士(7)


 砂利の上、濃くはっきりとした真円が描かれる。
 全身が熱い海の真力で包み込まれた。馴染んだ相棒の気配。誰よりも近しい真力が、知らない真術を展開する。
 ローグの真術にしてはめずらしく、精霊の乱舞が見られなかった。
 展開が収束したと同時に、愛らしい彼等が散っていく。仕事を終えたとばかりに、淡々と大気へ戻っていった。
「何の真術ですか」
「いまにわかる」
 含みを持たせた返答。隠し事が多いのは困ってしまう。
 真術を展開し終えたローグは、そのまま湖へと向かった。水の中に分け入っていく背中を、慌てて呼び止める。
「水に入る時は心臓付近に水を撒いておけ。足からゆっくりでいい。いきなり入ると身体が固まるからな」
「ねえ、待ってください。ねえってば」
 ちらと振り返った彼は、早くこいよとだけ言って、水の中に沈んでしまった。
 湖畔にぽつんと残された自分。
 身体には真術の気配がしているけれど、何の真術か検討もつかない。
「強引です……」
 苦情を出してみても、遠くから水音だけが返ってくる。ゆれる水面を眺め。靴に視線を落として決意する。

 もう、どうとでもなってしまえ。

 ローブを脱いで岩場にかける。手早く靴紐を解いて、足布も取り払いポケットに仕舞う。
 仕舞った拍子にまた鈴が鳴る。ささやかな応援を、素直に受け取った。
 砂利に足を乗せたら痛かった。ローグは平然と歩いていたけど、薄い皮が悲鳴を上げ続けている。
 頭に手をやる。これは少し躊躇った。やっぱり止めようか……。
 そう悩んだ時、声がした。
 勢いに押されて帽子を取ると、夜の風が頭を撫でてくれた。まとめた髪はそのままにして、湖へと歩いていく。
 足が水に触れた。

 ――冷たい。

 でも、凍えるような温度でもない。ふくらはぎまで水に漬かる。ズボンの裾が足に絡んでくる。頭の中で村長の声がした。
 悪いことをしている。
 そんな風に思えてならない。いままで村長の言葉には素直に従っていた。逆らうことなど考えてもみなかった。
 きっと怒られる。ごめんなさいと言って許してもらえるだろうか。不安な気持ちと一緒に、わくわくとした気分が湧いてくる。
 いたずらをする時は、こんな気持ちになるのだ。後ろめたさと手を繋いでいる気持ちは、何という名前だろう。
 ざぶざぶと水をかき分けて、もう腰まで漬かった。

 ……ついにやってしまった。

 そう思い、口元に笑みを乗せる。
 手で水をすくう。透明な水を顔にかけた。心臓の辺りにもかけて思いっきり息を吸う。
 潜ってみようと考えたその時、水中に影を見た。
 瞬く間にせり上がってきたローグは、強引に両手をつかんでから顔を近づけてくる。
 目の前に広がる、悪い笑顔。
 声を立てることもできぬまま、水の中へ引きずられる。

 息をつめて、目を閉じて――。

 ぎゅっと縮こまった身体を、とんとんと軽く叩かれた。
 そっと……。そうっと目を開く。
 視界を白が埋める。
 まばゆい光は、彼の額からあふれていた。
 口を動かして何かを訴えている。"開けろ"だろうか。
 読み解くことが難しい。その上、息が苦しくなってきた。何を言いたいのか声が聞こえなければわからない。それなのに、聞こえるのは泡の篭った音ばかり。
 ついに限界となって、詰めていた息を盛大に吐き出し――唖然とした。
 息が吸えるのだ。
 驚く自分を確かめて、ローグはまた強引に自分を引き上げる。
「どうだ、大丈夫だっただろう」
 垂れた前髪をかき上げつつ、こう言った。
「さっきの真術は……」
「無類の真術だ。"潜水の陣"という。使えそうだったから覚えてみたんだ」
「人を驚かすためにですか?」
「まあ、それもある」
「もう」
「溺れる心配はない。サキでも絶対に泳げるようになる……ということで許してくれ」
「驚いた分と釣り合いません」
 答えてぷいと横を向いた。
「言うようになった」
「商人と一緒にいましたので」
「俺のせいか」
 くつくつと笑うローグから、水滴が落ちてくる。くすぐったかったので水を払い、いつものように腕に手を置いた。
 頬が熱くなる。
 思い出していたたまれなくなる。触れた腕は熱かった。自分の腕とはまったく違う感触だった。
 固まった自分を見て、彼は耳に口を近づけてくる。
「いつも思うんだけどな。サキは気づくのが遅い」
「ロー……」
 ざぶりと水中に没した。
 腕は誘われるまま彼の首に。真眼が光ってまた真術の気配がしてきた。旋風の気配が自分達を包み込む。
 湖を翔ける。
 白の風が水流を生んで、どんどん二人を運んでいく。

 ――早い。

 ふと、上を見た。
 湖面は星の光でわずかに光っている。

 ――きれい。

 深い黒と目が合った。
 真眼が強く光っていて、うれしくなった。
 自分も同じように真眼を開き、真円を描く。こんなに大きく描いたことはなかったけれど、意外と滑らかにできた。
 手を首から離して、彼の両手と絡める。
 力強く展開した流水は、旋風と混ざって二人を一気に押しすすめる。

 ――すごい。

 すごい、すごい。
 興奮を抑えられなくなって、夢中で展開を支え続けた。
 魚になった気分だ。
 身体がこんなにも自由なのだ。ぐるりと回っても、上へ下へと泳いでも。世界が全部を受け止めてくれるのだ。

 両手がふっと離された。
 その場所に留まったローグは、すっかりいたずら小僧の顔をしている。
 思惑を理解して、加速した。
 流水ならば扱い慣れている。何せ毎日使っている。
 とにかく遠くへと流れに流れて、後方から巻き起こった旋風の気配を感知した。
 捕まってなるものか。
 追いかけっこだ。
 初めてだから、逃げ方がわからない。真っ直ぐに逃げていたら、あっという間に追いつかれる。
 どうしようか?
 こうしたらどうだろうか。
 思いつきを実行に移す。いきなり止まってさらに深くへと潜った。
 圧倒的な力を誇る真術は、制御するのが難しい。思惑は当たったらしく、頭上をローグが翔け抜けていった。横目で見た彼は、あれという顔をしていた。
 賭けに勝ったようだ。
 悪徳商人殿を出し抜けた。してやったりである。
 ちょっと悔しかったのだろう。真面目な表情に切り替わったローグが、また水中を翔けてくる。
 これはいけない。かなりの速度だ。同じ手は通用しないだろうから、何か考えないと。
 追い詰められそうになり、思わず水上へと飛び出てしまった。舞い上がった水飛沫は、精霊と混じってきらきらと光る。ほんの少しの間だけれど、自分の力だけで宙を舞う。
 身体が軽い。
 このまま、どこまでも飛んでいけそうな錯覚を抱いた。思わず、広がる星空に手を伸ばす。

 いまなら。
 いま、この時ならば届きそうで――。

 そう思った時、下方から大きな水音と共に、強い真力の固まりが飛び出てきた。
 咄嗟だった。
 真術を展開してから、しまったと思った。
 飛び出た時よりも、盛大な水音が湖面に響き渡る。二人揃って湖に落ちたから、またもや盛大に水飛沫が舞った。
 少し離れた場所に、ぷかりと浮かぶ人影がある。
「……守護は卑怯だ」
 不貞腐れたローグから、苦情が申し渡される。
「びっくりしたのです」
 言い訳を置き去りにして、流水を展開した。
 彼は、再び魚となった自分に向かって「本気でいくからな」と呼びかけてくる。言葉通り。先ほどとは比べようもない速さで、ローグがぐんぐんと迫ってくる。どうにかこうにか逃げていたけれど、それももう限界。
 岩場近くまできて、退路を失ってしまう。
 ついに捕まったその時。身体が大きくゆさぶられて、思考がふつりと途切れてしまった。

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