蒼天のかけら  幕間  夏の真導士


夏の真導士(8)


 切り替わった視界。
 状況に追いつけなかった自分は、ただ呆然と光景に見入った。
 つららのように垂れ下がった黒髪から、ぽたぽたと雫が落ちてくる。くすぐったく頬に落ちてきては、わずかに弾み。すでに作られていた水の道を流れていく。
 両の手首には熱い拘束。
 岩場に押さえつけられたまま、三度だけ瞬きをした。
「ローグ?」
 水から這い上がった黒髪の相棒は、黙ってこちらを見ている。
 明かりを背に受けているため。その顔が影に埋もれていて、近くにいるというのに感情を知るのが難しい。真眼は閉じられてしまったようで、瞳の中に炎も浮かんでいないのだ。
 何も視えない。
 互いの呼吸は、水音に紛れてしまっている。
「どうしました」
 自分でも固いとわかる笑いを、頬にのせて聞く。
 湖面のように静かな黒の瞳が、ちらと見えた。夜の湖よりもずっとずっと深い彼の色。
 けれど苦手だ。
 感情に触れさせて欲しい。
 ローグを遠くに感じてしまうのが嫌で、名前を呼ぶ。
 呼べば応えてくれる。
 いつだって返事をくれるのだ。自分が独りを嫌い、厭うていることも。孤独を打ち消すために。誰かの存在を確かめるために名前を呼ぶということも。
 ローグは全部を承知してくれていて。そして、彼の理解を自分は知っていた。
 ずるい自分を許容している恋人の名前を、また世界に放つ。
「サキ」
 呼応するように、自分の名前が世界に生み落とされる。
 かつてぽっかりと穴を開けていた胸の奥が、じわりと熱を帯びた。
 もう、いつ埋められたかも思い出せないその場所が、鼓動に合わせて疼いている。
 痛みに似た幸福な苦しさ。ゆっくりと息をしているのに、ちっとも治ってくれない。気力を整える時と同じように、瞼を下ろして、深く大気を吸った。
 呼気を止まる。
 重ねられた唇から、呼吸の一部が逃げ出していく。
 頬にじわりと熱が染みる。焦りに似た衝動が、心臓から飛び出してきて、身体中に渡っていく。
「ローグ。いけません……」

 ここは外だ。
 これは、いけないことだ。

 自覚があった。自覚できるくらいは理性が働いていた。
 水遊びをするよりも、ずっとずっと悪いことだと理解できていた。
 熱の拘束から抜け出ようと、身体を捩ってみる。少し動かしただけで、押さえつけられていた両手に自由が戻った。
 ところが今度は、身体が押しつぶされる。
 加減されているといっても、人の身体はずいぶん重い。自由になった両手で押し返そうと試みるが、自分の腕では無理に決まっている。
「からかうのはやめてください」
 喉が震えた。
 頭の中で、理性が警鐘を鳴らしている。

 きっと、とてもいけないことなのだ。

「逃げるな」
「だって――」
 反論が口付けで潰される。
 耳がじんじんと熱くなってきた。唇から与えられている熱のせいで、少しずつ自分の理性が溶けていく。そう、溶かされていっていると思った。
「逃げるなよ」
 顎をつかまれた。荒いと感じた手の動き。鼓動がどんどん早くなっていく。
 ぎゅっと目を瞑った。
 鳥が餌をついばむような軽い口付けが続く。わずかな間があり、今度は喉に熱を感じた。
 もう、何も言えなかった。
 濡れた手で、胸に刻まれた彼の傷跡に触れる。指と指の間から、つっと水が滑っていった。
「逃げるくらいなら、最初から……」

 ――捕まらなければよかったのに。

 耳にやさしい声が、苦しさを訴えるように心を搾り出した。
「ここにいろ」
 低い声が静かに言う。
 耳に流し込まれた言葉は喉を伝い下りて、瞬く間に心臓を制圧する。
 熱病に冒されたかのような呼吸を繰り返す。何度も何度も。抜けない息苦しさで苦戦していると、ローグはまた言葉を突きつけた。
「何度も言っただろう……。なあ」

 ――もう、苦しい。

 切に訴え、また喉に唇を当てる。
「サキ、苦しい」
 握った形のままだった自分の左手に、骨ばった手が重なる。自分の手ごと、心臓をつかむような仕草をした。
 険しい眼差しが、ようやく星明りにさらされた。
「苦しい……」
 吐息と共に、せつない声が落ちた。
 崩れ落ちるように、自分の左側に埋もれていく。視界が大きく開けて、夜空が目の前に広がった。
 星々が煌く、天の世界。
 どうしても届かない向こう側を、じっと見る。答えが紛れていないかと目を凝らしてみたが、どこにも見当たらない。
「サキ」
 苦しそうに。不安そうに自分を呼ぶ恋人。声に反応してずきずきと痛む心臓。
「――わたしも苦しい」
 自分で種を撒いた想い。
 大切な気持ちが、急に大きくなってしまった。
「苦しい。……でも、よかった」
 遠くで水音がした。
 涼しい音色の上に、ささやきを乗せる。
 埋もれていたローグが起き上がり、静かに自分を見た。やさしい黒が目にまぶしい。右手を自分の心臓の上に置く。鼓動と鼓動を繋いで、それぞれの命を確かめた。
「わたしだけだったら寂しいから」
 一緒だ。
 苦しい気持ちが、二人分あるのだ。

「ローグと一緒なら怖くない……」

 どくりどくりと騒がしい鼓動。どっちも同じくらい早くて大きい。こんなところまで一緒だと、照れ臭くて笑う。
 そうしたら、ローグが気の抜けたような吐息を出した。
 脱力を含んだ吐息が、水で濡れた頬をくすぐる。
「どうしてサキは……こうなんだろう」
 熱い両手が頬に添えられる。顔のわきにローグの腕があるので、彼にすっぽりと包まれる形になる。
 むう、と変な顔になったまま、恋人と向き合う。
「どういう意味です?」
 額に口付けがきた。
「そういう意味だ」
 誤魔化しの気配を感じ取ったので、さらにむむっと顔をしかめる。
「好きだ」
 かっと血が上った。
 何でいまさらと、恥ずかしさで耐えられなくなる。
 足をじたばたと暴れさせて羞恥からの逃走を試みてみたけれど。上に乗られている以上、何もできはしなかった。
「大切にする。だから、俺だけを見ていてくれ」
 足をぴたりと止めた。
「絶対に、余所見するなよ」
 濡れて垂れ下がった前髪の後ろで、気高い黒が輝いていた。

 ――返事は?

 甘く低い声が耳に注がれる。何故か背中にしびれを覚えた。
「……はい」
 操られた人形のようになり、とても従順な返事を出した。
 虚ろな返事の後ろ側で、射抜かれるとはこういうことかと、天に問いかける。

 満天の星空と、満面の笑みを浮かべている恋人。
 黒く鮮やかな世界で、ようやく恋を理解した。
 明日からは、今日までと同じようにしていられないだろうことを、理解してしまったのだ。



 夏が極まったある日の夜。
 ゆっくりとした歩みを刻んできた彼女は、ようやく恋に落ちた。
 次の日から、ことあるごとに頬を染め、瞳をうるませるようになった彼女の姿を、友人達が目撃することになる。
 誰もが微笑ましく見守る中。彼女を恋に落とした張本人だけが慌てふためき、周囲にささやかな笑いを提供したことだけ、最後につけ加えておこう。

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