蒼天のかけら  幕間  真導士の宴


真導士の宴(1)


 眉根にあるしわは、怒っているつもりでいるらしい。
 しかし、どうにも困っているように見える。
 というよりも、そうとしか見えない。
 気配から本音を引き出しつつ、せめて申し訳ない風を装って肩をすぼめた。

 左腕にある浅い裂傷には、乾いた血がこびりついている。痛みはそれほど感じない。
 そう伝えたのに、彼女は大げさに怒って心配する。そして「こんな大怪我をして」という顔のまま裂傷に手をかざした。
 白い額で真眼が光る。
 半分だけ開かれた真眼から、求めていた風の気配がやってくる。涼しい風が彼女の前髪を通って周囲に満ちていく。
 風が精霊を招いている。
 天水に懐く精霊は、他の系統と比べて動きが穏やかだ。
 綿毛のような光が居間にあふれる。あふれると同時に彼女の眉根がゆるんだ。一転して微笑みを浮かべた彼女の琥珀に、視線が吸い寄せられる。

 癒しが展開され、蜜色と一緒に幸福が生まれた。

 サキは気づいていない。
 癒しを展開している時は、口元をほころばせる。唇にうっすらと浮かぶ笑みは、いつ見ても飽きない。
 触れたいなと思った。
 思っただけのつもりだったが、身体が勝手に動いてしまった。
 右手の親指が、淡い色を乗せた唇に着地する。
 下唇の中央はふくらみがあって特に柔らかい。心地よさを堪能していたら、咎めるように名を呼ばれた。
「集中できません」
 はっきりと言って、また眉根を困らせる。
 変わったと思うのはこんな時だ。変化めまぐるしい恋人は、かつて弱々しい声をしていた。
 拾うより早く大気に消失していくあの声が、もうすでに懐かしい。
「怒らないでくれ」
「いたずらばかりするからです」
 湿った吐息が、往生際の悪い親指にかかった。
 何も感じないと言ったら嘘になる。気持ちを捻じ曲げるのは大変なんだと、無防備な彼女に気配を飛ばす。
 途端、小首を傾げた。
 目を覗き込んできた蜜色が、真力を帯びてうるみを強くしている。
 何かを訴えられたけれど、何だったのかわからない。
 そう素直な表情で聞いてくる。
 甘え猫の質問に、明確な回答は出さずにおいた。
 わかって欲しい気持ちとそのままでいて欲しい気持ちが、今日も波に揉まれている。

「サキ」

 何ですかと聞いてきた声に、喜色が混じった。
 寂しがりの彼女は、名前を呼べば喜んでくれる。最初は変わった娘だと思っていたような記憶がある。
 努力もいらなければ対価もいらない。それで喜んでもらえるなら……と思ったのが、罠への一歩目だったのだろう。
 あの頃は、こんな苦悩がやってくることなど想定していなかった。準備不足もいいところだ。
 混ぜこぜになった気持ちを誤魔化しつつ、また彼女を呼ぶ。
 くすぐったそうに首を竦めたサキは、残りたがっていた親指を捕縛して甘く溶けた。

「……もう、何ですか?」
 とろけた蜜は、こぼれてこないのが不思議なくらいだった。
「呼びたい」
 言えば、びっくりした顔をして頬を赤らめる。
 目が伏せられ、金のまつ毛がよく見えるようになった。薄い輝きが小刻みに震えていて、気持ちにさざなみを立てる。
 癒された左腕で彼女を抱き寄せた。
 そよ風にわずか遅れて、リテリラの香りがやってくる。
 どこもかしこも甘そうなサキは、小さくなって腕に収まった。
 添え髪の後ろに白いうなじがある。咎めが来ることを予想してから、赤い線を残したままの肌に口を当てる。
 ほんの少しだけ。
 怒り出す前に撤退するつもりだったのに、彼女は予想を裏切ってただ縮こまっていた。
 口がなめらかな感触に触れ続けている。柔らかな肌からも甘さが香っていて、どうしようもなくなってしまう。

 まずいなと思ったのは一瞬だった。

 そして打ち消したのも一瞬のことだった。
 もう、このままリテリラに埋もれていたい。甘くて柔らかい身体を確かめていたい。
 先日の爪跡は、まだ身体の芯に残っている。
 あの日に得た悦楽は、疼きとなって身の内に沈んでいる。取り除きようもないし、取り除くのがもったいないとも思えていた。

 気持ちの濁流をいつまで防いでいられるか。
 いつかこの努力にも終わりがくる。堤防の決壊はすでに予測ができていた。

「サキ」
 このままでいてくれ。でも、頼むから拒んでくれ。
 真反対の気持ちが、ぎりぎりの場所で立ち往生している。
「……ローグ」
 まいったな。
 どうして彼女は声まで甘いのだろう。
 ほのかな甘みを含んだ鳴き声は、どこまでも耳に心地いい。
「治りましたよ」
 律儀な報告は、緊張を隠そうとして失敗していた。
「あまり怪我をしないでくださいね」
「難しいな」
 手ほどきという名目で行われる"しごき"は、想像以上の厳しさだ。
 彼女が心配していようがいまいが加減などしないだろう。
「まだ、傷みますか」
「ああ……。さすがに真術でできた傷だと尾を引く」
 多重真円の真術ともなれば、痛みの残り方がひどくなる。
 血と真力は混ざりやすい。
 それこそ他者の真力でも混ざってしまう。そのせいか真術で作られた傷は、治った後も痛みが持続する。
 馴染みのない真力は毒物。できるだけ食らうなと言われても、あれでは難しい。
 塞がった場所を、白い手が撫でる。
 痛みが消えることはない。それでも和らいだようには感じる。ありがたい錯覚を受けながら目を閉じた。
 細い呼吸が断続的に聞こえてくる。
 サキはまだ、腕の中で大人しくしていた。
「そろそろあいつらがくる」
 安全な場所に解放しようと誘うが、彼女は相変わらず儘ならない。「あとちょっとだけ」と鳴いて、首に腕を回してきた。



 窓の向こうに落ち葉だらけの道が見えている。
 人影はまだない。
 もう少しすれば友人達がやってくる。最初にくるのは誰か。
 できれば自制心の番人であることを願い。細い身体を夢中で抱いた。

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