蒼天のかけら  幕間  真導士の宴


真導士の宴(7)


 さっぱりと平らげられた皿を重ねて、炊事場に運ぶ。
 片付け物はいまので最後だ。
 食卓はローグが拭いてくれていた。二人で手早く終わらせて、もう少しだけ飲もうと誘われている。
 近頃の彼は、青銀の真導士による修行のせいで早めに就寝することが多かった。二人だけでゆっくりと話をするのは久しぶり。片付けながらも、わずかに気持ちが逸っている。
 酒の匂いが嫌いなかわいい子は、自室の寝床で丸くなっていた。
 完全に拗ねてしまっているようだ。
 明日はたくさん遊んであげよう。そう決めて部屋に水だけ置いてきた。

 片付けが終わったので新しいグラスを準備し、残った水菓子を皿に盛り直す。
 お酒はローグに持ってきてもらおうと炊事場から首だけ出して、呆気にとられる。

「……これは」

 その賑やかな光に目を奪われた。
「相棒殿のご機嫌直し用」
 どうだと笑う恋人は、薄闇の中で星と戯れている。
 妖精の園と化した居間は、小説に差し挟まれた絵のように幻想的だった。
 食卓に輝尚石がぽつんと置かれている。左右交互に旋回している真円から、幻視の気配がただよっていた。ちょこまかと動いているこの子達は、輝尚石から呼び出しを受けているらしい。
 木の実の帽子と、葉っぱでできた服。少ないけれど、花のドレスをまとった妖精もいる。
「聖都の術具屋で買ってきた」
「こんなものまで……売っているのですね」
 ふわふわと舞い上がって、かと思えば透明な階段を競争しながら下りてくる。
 かわいい幻想に見入り、脅かさないようにそうっと長椅子まで歩く。
 入れ違いざまに「真術だ」とからかわれたけれど、小さな彼らはまるで生きているようで、どうしても忍び足になってしまう。

 ローグが果実酒を手に戻ってきて、二人だけの酒宴がはじまる。
 わいわいとした光景のおかげで、薄暗くても大丈夫だ。
 グラスに赤い果実酒が注がれていく。一口飲んでから、あっと声を出した。これは以前、ローグに誘拐されたおいしい果実酒ではないか。
「酔っ払ったら終わりにするからな」
 くつくつと笑う彼に、頷きだけ返す。
 そしてまた一口飲んで肩に寄りかかった。あたたかさにうっとりとして、目を閉じる。
 呼吸に合わせて上下している肩にすべてを預け、穏やかな世界でたゆたう。

 いつだったか。
 そう遠くない昔に、抱いた気持ちを思い出す。
 不思議だと思ったことがある。
 そこまで大きな判断をしていないのに。いつの間にか見える景色が変わって、いつの間にか繋がっている人がいる。
 失ってしまったと嘆いていたら、繋がりの先で出会い直したりもする。
 するり、するりと交錯していく彩り鮮やかな糸達は、どのような絵柄となるのだろう。
 出来上がった織物をまとった時、どんな気持ちになるのだろう。

 隣から気配が放たれている。
 彼の気配に白く包み込まれながら、未来を思う。
「サキ」
 眠いのかと聞かれた。目を閉じていたためだろう。
 笑いをこぼして首を振った。酒宴ははじまったばかり。もったいなくてとても眠れない。
「幸せだなと思いまして」
 瞼を上げ、黒の瞳を見つめる。
「サガノトスにきてよかったな、と……」

 あの日。
 すべてが動き出したあの時。怖くてたまらないと感じていたのも事実だ。
 "開眼の間"へと繋がっていた回廊は、黒々とした闇に覆われていた。進めば戻れないと理解していた道だった。
 いまとなっては恐れていた理由もよく思い出せない。
 でも、それでいい。

「早いな。もう、か?」
 黒の奥にある炎が、いっそう明るく燃えさかった。
「俺はまだまだ幸せにするつもりだ」
 腰に腕が回ってきた。抱き寄せられたせいで、ちゃぷんと赤が跳ねて飛ぶ。
「贈りたいものも、連れて行きたい場所も、見せたい景色も山ほどあるのに。満足するのが早過ぎる」
 気配に飲まれたようだ。
 上気してきた頬を誤魔化そうと、無意味な虚栄を張る。
「……満足したとは言ってません。幸せがいくつあってもいいではないですか」
 言えば、いたずらっぽい笑みを浮かべられた。
「左様で」
「左様です」
 むうっとなってみたけれど、彼は我関せずとお酒を飲んでいる。
 戦ってもいないのに負けてしまったようで、何となく面白くない。なので、お酒の力を借りて絡んでみた。
「貴方はどんな時に幸せだと思いますか」
「俺?」
「そうです」
 束の間、天井を見上げ。次いで簡素な言葉が落ちてくる。
「腹がいっぱいになった時」
 そうだろうなと思ってしまって、少しだけ噴き出した。
「完売した時。交渉が上手くいった時。あとはサキが笑っている時」
 視線の先で、穏やかな黒がやさしい光を出している。
「それから――」
「まだあるのですか?」
「いくつあってもいいと、サキが言ったんだろう。……旬のリズベリーを食べた時も追加する。何で笑うんだ」
 出てくると思ったからだ。
 忘れているなら指摘しようと考えていたけれど、やっぱり覚えていた。
「ローグは絶対に満足しそうにないですね」
 自分の欲張りも大概だ。しかし、悪徳商人にはさすがに負ける。
 底知れぬ貪欲さは、いっそ頼もしいとすら感じた。
「満足か……。しないだろうな。一つ手に入ったら次のものが欲しくなる。欲しいと思わなくなるのは、きっとよぼよぼの爺さんになってからだ」
 彼が年老いた姿など想像がつかない。
「では、一番欲しいものって何ですか?」
 続けて質問したところ、整った眉が悩む形を作った。
「サキは」
「わたし? わたしは――」
 何だろう。
 欲しいものと言われると、いつも困る。
 真導士の里は何もかもが整っているから、なおのこと見つけるのが難しい。
「お皿、とか」
 今度はローグの方が噴き出した。
「ずいぶんと現実的だな」
「最近はお皿が足りなくなるんですもの」
 今日の宴だって、ぎりぎりの状態だった。当初より客人が増えたのだから必然の結果である。
「次の休みにでも買いに行こうか」
「はい。……それで、ローグはどうなのですか」
 黒がまた天井を見上げる。
 気がつけば、海の真力が忙しなく肌を撫でている。
「どうしても聞きたいか」
 そして天井を見上げたまま、こんなことを聞いてくる。
 不思議に思い、瞳が下りてくるのを待った。心の炎に触れた方が気持ちを読み取りやすい。
「ローグ……?」
 いつまで経っても返ってこない答え。いつまでも下りてこない瞳。変哲もない会話だったのに、塞き止めている理由に検討がつけられない。
 視線の先にある目が閉じられた。
 深く、考え込んでいるようにも見える。
「一つだけある」
 どうしても欲しいものが、たった一つだけある……と、目を閉じたままで答えた。
「なあ、聞きたいか」
 問いがきた。
 普段通りの口調だというのに、首筋があわ立った。
 黒が開く。
 腕の檻の中で、息を止めて彼の動きを見つめる。黒の瞳が目の前にやってくる。炎は相変わらず強く燃え盛っていて、こちらにいる自分をよく映していた。
 あわ立ちのある首に右手がかかった。
 いつの間に置いたのか、骨ばった右手にはグラスが存在していない。

 赤が飛び跳ねた。
 どくりと鈍い音を響かせて。
 身体の中心で、心臓がわなないている。

 熱を孕んだ呼気に唇を撫ぜられた。一定の間隔で刻まれている呼吸が、果実酒の残滓を乾かしていく。
「いま、聞くか」
 三度目の問いは、最後の機会だと言っているようだった。
 意味を考えるような余裕は、毛の先ほどもなく――ただ首を振った。
 臆病者の回答を受けても黒はそこにいた。黒の後ろでは無邪気な世界が広がっている。
 落差のある光景。
 子供の夢を映した世界と熱い現実の境目はひどくあやふやで、指一つも動かせなかった。もしも、動かしてしまったら……と考えた時、前触れもなく夢の世界が終わりを迎える。
 輝尚石からの光が消えて、妖精達が棲家に戻っていってしまった。
 居間が暗闇に飲まれる。あやふやながらどこかにあった境目も、妖精達と一緒に闇へ消えた。

 痛いくらいの沈黙が続く。
 視えているのは白い炎だけ。いつからか胸が苦しくなっていた。

 時間の経過すらも消失してしまった世界で、抱きすくめられる。
「ローグ」
 熱い首筋に左の耳朶が潰された。流れている血潮の音が、とても鮮明に聞こえる。
 左手で支えていた果実酒がついにこぼれた。
 手を濡らし、まとっているローブと彼の服を甘い匂いで染める。
 力を失った左手がグラスを放棄した。
 棄てられたグラスは、長椅子を転がり暗闇に消える。
 ずぶ濡れになった左手が、暗闇を移動してきた骨ばった手に浚われる。運ばれていった先には、湿り気を帯びた柔らかい感触があった。
 声を出そうと息を吸い、先手を奪われる。

「どちらだ」

 彼の声は低く響いて、夜に溶けた。

「……"嫌"と"駄目"。どちらにする」

 顔に熱が集中した。
 理解を確認するような問いだ。どちらかを選ぶよう強要され、苦しさで胸が破裂してしまいそうだった。

「――"駄目"」

 骨ばった手の拘束がゆるんだ。
「ローグ、……"駄目"です」
 解放された左手で、シャツを握った。
 赤が白に吸い取られていく。そんな絵を脳裏で描いて、強く握り続けた。
「ずるい……」
 詰ってから彼の喉元に潜る。
 潜った場所で高くなった脈がまだ響いていた。
「サキが悪い」
 深い息が、背中の方で出された。
 言いながら抱きついてきたローグは、飽くことなく深呼吸を続けている。
「どうしよう」
 しばらくして奥に笑いを潜ませた弱気な言葉が、焦げた耳に届いてきた。
「シャツ、駄目にした」
 くつくつと笑う彼に、自分も引きずられる。
 ひとしきり笑って、どちらからともなく唇を合わせた。互いの存在を確かめるように幾度か重ね、また抱き合う。
「もう少しだけ、いいか……」
 声を出す余力が残っていなかったので、気配で応えた。



 その夜、二人は長く寄り添っていた。
 虫達の演奏会も、残すところあとわずか。それを惜しむように声を潜めながら語らい、平穏な一日の終焉を待つ。

 季節が進む中、天上の星々は今宵も変わらぬ輝きで、夜を照らし続けていた。

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