蒼天のかけら 幕間 真導士の特訓
真導士の特訓(2)
硬直してしまっているサキに真力を注ぐ。
常日頃、彼女がぬくいと言っている真力で、凍結からの早期解放を試みる。
かちこちに固まった彼女は、うつろな目をして芝に座っていた。
握った状態を保ったままの右手に、青い髪が数本見えている。これには思うところもあれど、いまは何も言わずにおこう。
きっと落とされまいと必死になっていただけ。
彼女なりに考えた最善の対処法だったのだろう。
前回、落とされた時の恐慌を思い出しながら追加で真力を注いでおく。とはいえ、男の髪に触れるというのも問題だ。今夜にでも他の方法を入れ知恵しておくか。
「……これ以上、恐怖心を植えつけないでください。飛ぶ意欲を喪失してしまったら修行にならない」
小刻みに震えている恋人の隣に座り、相手に苦情を伝えた。伝えた相手ははずみで切り倒してしまった樹木の上に座り、書類を眺めている。聞いているのかどうかも怪しい。
たとえ聞いていたとしても、考慮されずに終わるのは承知している。
だが、言っておくことに意味がある。里の暗部を丸抱えしているこの高士は、基本的に口が堅い。とにかく放り込み、返ってきたものから掘り下げる。知識を得るには、これ以外の良策がない。
「己の羽で飛べぬなら、狙い撃ちにされよう」
今回は素っ気ないながらも返答を得る。
その声でびくりと弾んだサキが、小刻みに震えつつ自分の方に寄ってきた。
……ああもう、本気で怯えてしまっている。
落とされるだけでも怖がっていたのに、勢いをつけて急降下すればどうなるか。実際にやらずとも結果は見えていたはず。
まったく、何てことをしてくれたのか。
いまは仕方ないだろうと考え腕の中に誘う。慎み深いはずのサキの理性は、いまのところ機能していない。恥ずかしがるどころか必死になって胸元へと縋ってきたので、震えっぱなしの背中を撫でておく。
蒼白となっているその顔は、実家にいる末の弟を思い出させる。
三つになる前だったか。
末っ子は兄弟の中でも特にやんちゃで。時に親兄弟の目を盗み、港まで遊びに行ってしまうことがよくあった。
あの時も、いつの間にか家を抜け出していた。本人も油断していたのだろう。いくら叱っても危険な目に遭ったこともなく。時間が経てば誰かしらが気づいて、港まで迎えに行く。
迎えが来るまでの間。ほんの少し遊ぶつもりで、家を出たつもりだったろう。
しかし間の悪いことに、この日に限って家族の誰も気づかなかった。
時期は春迎祭の直前。
倉庫の建て直しをしていた上に、使用人の一人が怪我をして騒ぎとなっていたせいでもある。
荷が動く時期は忙しい。
うちの家もそれは忙しかったが時期的にどこの家も似たような状況で、町全体が騒がしくなっていた。誰もがせわしなく立ち働き、荷を動かす。荷が動く場所には人が集まり、金が集まる。
賊がやってくるのはこんな時。よりによってと言いたくなるような忙しい日が多い。
確か昼前だったろうか。
そろそろ飯でもと話をしている時、商船に化けた海賊の一団が港を襲撃してきた。
港で遊んでいた弟は幼いながらも騒動に気づき、身を隠したという。「壺の後ろ」と言っていたから、一応は物陰を選んだようだ。
そうはいっても残念ながら子供の浅知恵。
物色していた海賊に見つかり、荷物と一緒にさらわれてしまった。
一部始終を隣のご隠居が目撃していたのは、まさしく女神の気まぐれ。本当に幸運なことだった。
ご隠居がすぐさま組合に伝え、家にも連絡が飛んできた。連絡を受けた時の親父の顔は、いまでもはっきりと覚えている。
そこからは蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。嵐と賊には町全体で立ち向かうのが町内の決まりごと。カルデスに品と人が集まるのは賊の被害を防ぎ、取引先の財産を守るからでもある。
まんまと逃したら商売に響く上、子供がさらわれたとなれば大事だ。
カルデス商人と灰泥商人の仲は険悪といっていい。町の子供がやつらの手に落ちればどのような目に合わされるか……。
考えるだけでもぞっとする。
血相を変えた町の連中と共に追跡し、どうにか湾内で海賊船を囲んだ。沖へと出る前に包囲できたのは、連絡が早かったおかげ。両親は深く感謝し、いまも隣との付き合いを密にしている。
樽に詰められていた弟を発見したのは自分だ。蓋を開けて中を覗いた時、まさしくいまのサキと同じような顔で、泣くことも忘れ硬直していた。
あの体験のせいだろう。いまでも海賊が出るたび火がついたように泣く。港へも一人で行けなくなっている。母親が気を揉んであれこれと試しているけれど、それらしい成果は上がっていない。
恐怖は心を竦ませて、身体の自由を奪う。弟には大人になるまでの時間がたっぷりとある。しかし、自分達に残された時間はあとわずか。ここで歩みを止められてはたまらない。今夜は気力を整える手伝いをしないと……。
「――おい」
呼びかけに思考が断ち切られた。
何事かと顔を上げたところ、顎で意図を示される。
示されたのは腕の中で寝息を立てているサキ。ローブを握り締めた状態で、すっかり寝こけている。
「"眠り病"か」
唐突な眠りは疑うに十分なものだった。
「いえ、違います」
同じ眠るにしても差は明確。"眠り病"なら辛そうに眉を寄せて寝る。いまの寝顔はやすらかと言っていい。
「念のため、ジョーイ高士にも確認しました。"神具"の影響だそうです。寝たいだけ寝かせておくのがいい、と」
近頃は、隙間があればすぐに寝る。来る日に備えて、力を蓄えているのだろうと言われた。
「青が出てくる気配はあるか」
これに再び「いえ」と返し、思惑を察知した。
「……無駄ですよ。どんなに高い場所から落としても"青の奇跡"は出てきません」
"青の奇跡"は彼女自身が拒絶している。
悲しみから成る意志の力は、やすやすと砕けるものではないだろう。
「命の危機で発現するとも聞いたが」
"森の真導士"の襲撃。ベロマの地下や例の触手。
命が危険にさらされれば確かに発現する。青は彼女を守るようになっている。
「命の危機があればサキの意志に反して出てくるかもしれない。でも、いくら恐怖を与えても、バト高士では危機を与えられない」
高士嫌いの高士。
彼女から聞いたこの男の特性。
だからこそ、あえて尊称を付けて呼んでいる。そうやって密かに溜飲を下げていると、男は訝しそうな顔をした。
「もしもの時は手を出すとわかっている。そんな相手に危険を感じる方がおかしい」
ここ数日に渡って観察し、手に入れた事実。それは彼女が男を信頼しきっているということだ。もちろん気持ちは大いに騒いでいる。といっても事実は事実。捻じ曲げても意味がないし、さらにもう一つの事実も得た。その事実がまだ大丈夫だと言っている以上、いまは"風渡りの日"に集中しようと決めている。
返答を聞いて熟慮しはじめた男を横目にしつつ、彼女の背中を撫でた。
「青を調べれば徒労に終わるかと。あれは真術ではない。……古代真術ともまったく違う」
遺跡で触れた奇跡の力は、いまの真術よりも遥か上を行っていた。
それでも――青とは異なっている。
"青の奇跡"は真円も精霊も展開すらも必要とせず。ただ彼女が願った通りに放たれる。
「どう転ぶかわからない。不測の事態を招く可能性がある。そう懸念するのもわかります。……かといって、解読部すら認識していなかった力を、いまさら調査しても間に合わないでしょう」
男の手元には書類があった。
報告書か。はたまた指令書か。熟読している様子から、重要な書類であることだけは確かだった。
「他に変化は」
聞かれて記憶を辿る。
「強いて言えば、察知能力が落ちているくらいかと」
言った途端、舌打ちが返ってきた。
「報告を怠るなと言ったはずだが」
叱責と同時に、冷たい気配も飛んでくる。寒さを感じたのか、腕の中のサキが身体を縮めた。眠る蜜色の猫をかばい、周囲に真力を巡らせてから反論する。
「いま思い至っただけです」
「……いままでに起こったことをすべて話せ。これ以上の抜けがあれば承知せぬぞ」
報告を求められたので、急ぎ頭を巡らせた。