蒼天のかけら  第一章  静白の門


迷いの森


 どれほどそうしていただろう。
 人影が消え、声も聞こえなくなった森の前で、ようやく自分を取り戻した。
 少しも動かさなかった身体は、湿気た風に吹かれ続けて、肌寒ささえ感じるほどになっていた。立ち尽くしていたせいか、わずかに動かしただけで膝がきしきしと軋む。

 草原はどこまでも広がっていて、聖都ダールの街並みも、女神パルシュナの神殿も何一つ視界に入らない。
 戻る術はないようだ。
 胸中はひどくささくれ立っていたけれど、森に進まなければと考え、額に開けと念じる。
 戸惑うような白が、二度ほど明滅して世界に光をもたらした。

 世にいう真導士の力。
 真導士の行うすべての奇跡、これまさに朝日の如くと聞いたことがあった。
 限られた者しか目にすることができない恵みの光。しかし、いまの自分にとってその光は、あまりに虚しいとしか思えなかった。
 苦痛を運んでくる白。
 よどんだ気持ちを抱えながら、森に足を一歩踏み入れる。一歩入っただけで、湿気た大気がより濃くなったのを感じた。
 森の樹木は大半が古木である。長い年月の中で太い幹を育て、生い茂る葉を生んだのだ。本来なら木漏れ日が少なく、幹に厚く張り付いている苔の色で、不気味な暗さを保っていることだろう。

 森の中にいくつか真円が輝いている。すべてが誘うように光を放っているが、複数の道があるようで、どれが正しいかがわからない。
 他の人達はどれを選んだのだろう?
 ……できる限り会いたくはない。
 真円はあまりに均一で、差が見つけられなかった。これをどうやって選べはいいのか。まさか、自分ではわからないのだろうか。
 真力が低い"落ちこぼれ"には――。
 さらに開けと念じても、輝く円に変化はない。正解がどうしてもわからない。進んでいけば、行き止まりになっているかもしれない。
 そう考えてもう一歩踏み出した瞬間、森の奥から悲鳴が聞こえてきた。
 反射的に身体がはね上がる。
 そんなに遠くはない場所で、複数の人が叫んでいた。逃げろと口々に喚く声している。
(何……)
 女の甲高い叫び。
 そっちに行くな、と誰かが激しく怒鳴っていた。
(何かいるの?)
 全身に鳥肌が立った。胸に叩きつけられたような衝撃が走る。
 耳鳴りがサキの頭を締め上げていく。

(あれが、来る――)

 あの悪夢の続きが、サキを追いかけて来る。
 後ろを振り返った。
 広がる草原には影一つ無い。その何もない景色が恐ろしい。
 隠れられる場所がないのだ。
 いまの自分は冷静ではないと、どこかで知っている。けれども後から後から湧き出でる恐怖が、背中越しに走れと追い立ててくる。
 サキは走った。
 ひたすらに走った。
 真円など見てはいなかったし、森の緑も、枝も、枯れ葉もサキの目には何も入らなかった。
 葉に掻かれ、根につまづきながらも、足を止めることができない。

 逃げなくては

 どこまでも走って

 隠れて

 決して見つかってはいけない

 見つかったらきっと、きっと――

 倒れた樹木を越えようとして転ぶ。
 助けてくれる人はいない。信じられるのは自分だけだ。逃げて、隠れるしか、生き延びられない。
 転んだ場所で、太い樹木を見つけた。
 這うように進み、樹皮で手の平の柔い皮膚を傷つけつつ、冷たいそれにすがる。
 歯を食いしばった。
 走り過ぎて息が苦しい。それでも口を閉じていなければ。声を一言でも発してしまったら、見つかってしまう。
 目頭が熱い。でも泣いてはいけない。泣いたらもう独りで走っていけない。
 来た方向とは逆側に回り込み、後ろから追いかけて来るはずの何かに見つからないよう、必死で隠れた。
 唇を噛みしめ過ぎて痛い。
 けれど決して声を……涙を出してはいけないのだ。
 心臓は飛び出てきそうなほど、激しく荒れ狂っている。

 来る……。
 ――落ち着いて

 追いかけて、来る……。
 ――あれとは違う、違うから

 隠れないと、見つかる……。
 ――ちゃんと見て、あれじゃない

 見つかったら……。
 ――違う



 見つかったら、食い殺される!



 瞬間、下から突き上げるような力がきた。
 地面がぼこり、ぼこりと膨れ。沸騰した湯のようになって地形を変えていく。
 頭から血の気が引いた。
(何、これ……)
 熱もない上に、湯気もない。
 それでも絶え間なく地形が変動する。すがっていた幹がぎしぎしと叫びを上げている。
 視界が白く染まった。周りの樹木が輝きだしたのだ。
 白に埋もれていく。悲鳴を上げることさえできない。ただただ、白の洪水に飲み込まれていく。
 身体が浮遊する。
 地面が割れて、大きく口を開けた。

 助けを求めようと腕を伸ばしたが何もつかめず、空をむなしく掻いた。

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