蒼天のかけら 第一章 静白の門
鼓動
サキの正気を確かめた男――ローグレストは、上着に張り付いた土と木端を、手早く払ってくれていた。
泣きやまなければ。
平静を取り戻そうと、目をごしごし擦る。涙を流したのは久しぶりだった。幼い子供に戻ったようで気恥かしい。
ローグレストが笑った気配がした。
不思議に思って顔を上げる。途端、少し目元を和ませた彼と、まともに出会う。
とくりと一つ、胸が脈を打った。
「サキ」
低い声。
自分の名前なのに、違う誰かを呼んでいるように聞こえる。
「立てるか?」
はい、と応じて立ち上がろうとした。
右足に力を込めた時、激痛が走った。痛みに耐えかね、立ち上がりかけた形のままよろめいて、ローグレストの体に着地してしまった。
自ら抱きつきにいった格好となってしまい、あわてて離れようとしてみたけれど、足の痛みで上手くいかない。こめかみを嫌な汗が流れていく。動くこともできず、痛みが去るのを堪えて待つ。
ローグレストは、右足に異常が出たことを気づいたらしい。
辺りに目をやり、何かを見つけて自分に視線を戻す。何だろうと思っていると、突然身をかがめ、有無を言わさず横抱きに抱え上げた。
か細い悲鳴が、口からこぼれる。
こちらの動揺を気にもかけず、すたすたと一直線に歩いていく。彼はしばらく歩いて、無造作に転がっていた平べったい岩に、ゆっくりと自分を下ろした。
ローグレストの腕が離れても、鼓動が早鐘のように乱れ打っていった。
怪我をしているとはいえ、男とこんなにも密着するなど……。
(ああ、何て……はしたない)
岩の上に人形よろしく鎮座させらせたサキの試練は、まだ終わっていなかった。
彼は靴に手をかけたのだ。
革の長靴はふくらはぎの所まで足を覆っており、革紐で上部を括っている。より正確に言えば、彼はその革紐に手をかけたのである。今度の動揺は、先ほどの比ではなかった。
素足は後ろ髪と同じくらい破廉恥な部位である。見ず知らずの男に素足を見せたことは一度もない。
「ま、待ってください!」
自分でも驚くくらいの声が出た。声に呼ばれた黒の瞳が、ひたと目を見つめてきた。
思わずきゅうと喉が詰まる。
「具合を見るだけだ、無礼な真似はしない」
彼はそのまま視線を戻し、無言のまま革紐を解いていく。解き終わると、今度は足に負担がかからないようゆっくりと靴を脱がされる。革靴の下に足布を履いてはいたが、こちらも問答無用で取られてしまった。
足を森のぬるい風が撫でていく。さらされた肌は、いっそ病的と言えるほど白く透けている。
素足に手が触れた。
驚きで肩が跳ねたのを気づかないわけがないのに、彼は両手で足を包み込む。
首も、頬も、耳も、どうしようもないくらいに熱かった……。
浅く焼けた手の色は、青白い肌の上で健康的に映えていた。
彼が右足に集中していることだけが救いだった。自分の顔は、いまにも湯気が出そうなくらいの熱を帯びている。
ローグレストは静かに足首の腫れを見て、そっと曲げた。
「あっ……!」
また、激痛が走った。
「やはり、ひねったみたいだな」
手当てをしようと言って、彼は膝の泥を払いながら立ち上がり、どこかへ行こうと背を向けた。
その背中を慌てて呼び止める。
「あの、大丈夫です。自分でなんとかしますから」
これは嘘だった。
手当てをしようにも、何も持っていないのだからやりようがない。嘘をついてでも大丈夫と言わなければ、きっと時間を使わせてしまう。
彼の足手まといになってしまう。それが、どうしても嫌だった。
ローグレストが振り返る。
「動けないだろう」
黒い瞳が、自分の嘘を見据えながら問う。悶々としている自分に、おとなしくしていろとだけ言い置き、歩いて来た方向へと戻っていった。
岩の上でしばらく呆然としていると、彼は革袋を二つ抱えてやってきた。
すっかり忘れていたが、一つは恐らくサキの持ってきたものだ。目の前に腰を下ろし、早速といったように革袋の中身を改めはじめる。革袋の中には存外にいろいろと詰まっていたようだ。
ナイフと厚手の布、瓶に入った水に紙袋。紙袋からはパンが四つ。
さらには包帯と、そして――白い光を帯びた二つの水晶。
「……これ」
何に使うのだろうか。
水晶は掌に乗ってしまうくらいの大きさで、真力を帯びていた。
「輝尚石を知らないのか」
キショウセキ。聞き慣れない言葉だ。
「はじめて……見ました」
「行商人が売り歩きに来るだろう」
「わたしの村、すごく小さくて……大きな町も近くにないので」
行商人など見かけたこともない、と素直に告白した。そうしたら遠くからきたんだな、と妙に感心されてしまった。
話しをしつつ、地面に並べていた輝尚石を手に取る。
「見ていろ」
何が起こるのだろうか。
痛みも、羞恥も忘れてローグレストの動きに集中する。
彼は慣れた手つきで、輝尚石に包帯を巻きつけていった。さらにそれを腫れた右足に巻きつけていく。しっかりと固定をして、揺すっても落ちないことを確認した後。ゆっくりと三回、指先で輝尚石を叩く。
サキはその光景に夢中になった。
光をうっすら帯びているだけだった輝尚石が、輝きはじめたのだ。
開眼をしたからだろう――強い真力を感じる。いままさに真術が使われていると感じられる。水晶は、うるむように輪郭を揺らしていた。揺れる輪郭の外側に、小さな真円がはっきりと見えている。
「ひねったくらいなら、すぐに治る」
包帯を革袋に仕舞いながら彼が言う。
「休むついでに、腹ごしらえをしてしまおうか」