蒼天のかけら  第一章  静白の門


望まれざる


 日が傾きはじめている。
 夕暮れまで、どれだけの時間が残されているだろう。
 革袋の中にはランプなどなかった。このままでは森で夜を迎えることになる。あまり歓迎できはしない。
 いつしか、少しずつ気が急いてきていた。
 真眼を開いている限り、真力の白い光が光源となってくれるだろう。でも、日中よりは確実に歩きづらくなる。

 あれから――最初の転送と思われる真術の発動から、またいくつか同じ真術が発動した。
 立ち昇る白い光は、常に違う地点から空に放たれていく。どうやらサガノトスへの入口は複数あるようだ。近い光に向かって行ってもいいけれど、森が動けば意味がない上に、下手をすれば真円の道も失ってしまう。
 そうなったら、もはや自力で森から出ることは不可能。それは二人にとって最悪の事態を意味する。早く辿りつきたい気持ちを抑えひたすらに進んできた。
 濃密になる緑の匂い。
 湿気を多く含む森の風のせいで、息が上がってきている。ローグが歩きを緩めてくれたが、それでも呼気は上がりっぱなし。頭にどんよりと雲がかかっており、会話も途切れがちになってきていた。
「サキ、少し休もう」
 ローグの提案に、ゆるゆると首を振る。
「さっきも休みました。まだ、大丈夫です」
「無理をするな。後々に響いてくる」

 足場はかなり悪い。森というより急峻な山のように思える。樹木は相変わらずうっそうとしている。しかし、どうも岩場に出たようで。ところどころに洞がある、小高い崖の近くを歩いていた。
 ローグの体力が羨ましい。自分はあまり外に出ない性格も相まって、長時間歩くのに慣れていない。すでに、ふくらはぎのあたりは鈍い熱をもっていて、足の裏はかちかちに固まっている。それにひきかえ彼は、顔にうっすら汗を浮かせているだけで、それらしい疲労の影すら見えない。
「あそこの洞窟で休もう。岩場に出てから木陰もあまりない。日に当たり過ぎれば熱で倒れる」
 言い募るローグに、それでも首を振って抵抗する。顔をしかめつつ見つめてくる黒の瞳に向かって、嫌だと切に訴える。
 汗で服が背中に張り付いていた。不快だけれど、いまはどうしようもない。
 森がざわざわと体を揺すり、強く湿った風が巻き起こる。汗を冷やして過ぎていく風。背を冷たい手が撫でたようで、悪寒が走った。……遠くで耳鳴りがしている。
 思わず背後を振り返る。
 何もいない。いない、はずなのに――。
「サキ……?」
 ローグの心配そうな声が聞こえる。それでも返事ができない。後ろから、いやどこからか誰かに見られている。
 あり得ない。でも、足が震える。耳鳴りが近づいてきていた。
「どうし――」
「く、る……」
 全景に慌ただしく視線を飛ばす。瞠目した彼が目に入った。それすら気にもとめず神経を尖らせていく。
 見られている、違う、探されている。

 異常な怯えに予感を覚えたのか、ローグが機敏に動いた。
 右腕を強い力で掴まれて引き寄せられる。とっさに払いのけようとした腕が、いともあっさりと抑え込まれる。音を立てぬように、どこかへと向かうローグの背中がよく見える。
 耳鳴りが高くなってきた。
 近くにあった洞窟に誘導され、奥に入れと手で促された。震えに追われながら奥へ向かう。
 洞窟の中には、大きな岩が侵入を拒むように転がっていた。懸命にもぐりこみ、最も大きいと思える岩の後ろに身を隠した。
 彼は岩を支えている洞窟の壁の方に、サキを押し込めるようにしながら、自分も同じ岩の陰に身をおいた。二人並んで、静かに座り込む。耳が痛い。肩が触れた時に震えを感じ取ったのか、ローグがちらとこちらを見て、手を握ってきた。
 冷たい指先を、骨ばった手があたためるように包む。
「俺がいいと言うまで動くな。……真眼は閉じておけ」
 静かに言われて肯こうとした。
 首に力が入り過ぎてうまく動けなかったが、返事を待たずに彼も動かなくなった。

 洞窟の入口から、森を流れる風の音だけが不気味に響いてくる。真眼を閉じたため、隣にいるローグの気配が、森に埋もれて消えてしまったよう思えた。確かめたくて手に力を入れると、応える動きがあった。
 きつく目を閉じれば、岩肌の苔の匂いが沁みた。
 洞窟の入口からじゃり、じゃり、と音が聞こえてくる。岩場の砂利を踏みしめる音――。
 遠くなったり近くなったりを繰り返しながら、足音が距離を縮めてきた。
 獣……ではない。
 人だ。
 耳鳴りは笛のように高く鳴いている。恐怖の最中でも取り乱さずに済んでいるのは、隣に確かな存在があるから。
 そして何より、心で生まれた確信。
(あれじゃ、ない)
 悪夢の続きではない。何かよくないものではあるが……あれが追いかけてきた訳ではない。
 根拠はなくとも、大丈夫だと信じられた。

 足音が洞窟の近くで止まり、二人同時に息を詰める。
 洞窟の外で気配がして、転がっている岩に柔く白い光が映り込んだ。
 真導士だ……。
 真眼は閉じているので明確な光ではなかった。しかし、日の光にしては白く、冴えた光がきらきらと壁の上で踊っている。
 二人は決して動かなかった。正師達だろうかと一瞬考えたけれど、すぐさま考えを否定した。
 真導士が互いの気配に敏いとは、こういうことなのだろう。冴えた光から悪意がまざまざと感じられた。幾度か真術の気配がして、少しずつ足音が遠ざかっていく。砂利を踏みしめる音がすっかり聞こえなくなるまで、息を潜めて待つ。
「……行ったな」
 彼は外を窺いながら、言葉を落とした。
 耳鳴りも消えていた。
「人ですよね」
「真導士だろう。ずいぶん胸が悪くなるような気配だった……。よく気がついたな」
「……見られて、いる気がして」
 探るように、見逃さないように森を這ってきた視線。思い出すだけで怖気が走る。
「外に出てみよう。まだ真眼は開くなよ」
「はい」
 音を立てず、洞窟の入口に向かう。外に出て、世界の眩しさに目を細めた。岩場には突然の来訪者の痕跡はどこにもなく、ごつごつとした岩肌が変わらずに広がっていた。
 あの真導士は、ここで何をしていたのだろうか。
「真眼、開いても大丈夫そうだな」
「ええ」
 二人同時に開いて、息を飲んだ。
「真円が……消えている」

 追ってきた唯一の道標が、視界のすべてから消し去られていた。

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