蒼天のかけら 第一章 静白の門
喪失
消えた――。
真円が。"迷いの森"を踏破する唯一の手段が、消し去られた。
目の前が暗くなる。これでは森を抜け出せない。恐れていた事態が起こってしまったのだ。
「……どういうことだ」
先ほどまであった真円。望まれざる来訪者が、ここに至る前までは燦然と輝いていた。来訪者に――悪意を持った真導士に消されたとしか考えられない。
「さっきの人、真円を消していたのですね。……でも、どうして?」
何故そんなことをする必要があるのか。このままではサガノトスに辿りつけない。
「サガノトスに行かせないつもりか」
「これも修業の一部……なのでしょうか」
ローグは首を振った。
「とてもそんな風には思えないな。先ほどの気配……サキにも感じられただろう?」
――悪意ある気配。害を成そうとする思考が、如実にあらわれていたそれ。
「悪意としか言いようがない気がしました……」
「俺もだ。修業っていうのは導士を……俺達を育てるためにやるものだろう。あれは育てる気を持っているとは思えなかった。潰そうとしていると言った方がしっくりくる。……とにかく真円を探そう。ここに長い間はいなかったはずだから、どこかに消されないで残っているかもしれない」
「は、はい」
幸い少し戻った所に、いままで歩いてきていた真円の道を見つけた。その道から推測し、記憶を確かめながら真円の通っているであろう方向に進む。
いままでのように真っ直ぐ進むわけにはいかず。来た方向を確かめながら進んでは。周囲を見渡し、真円を探して、また進んで周囲を見る。
緊迫した空気が流れる。すべて消されてしまったのだろうか。でも、何のために。
サガノトスに向かわせたくないということは、歓迎されていないということ。彼が……ローグが、歓迎されていないということはないだろう。『選定の儀』での一幕を思い出す。驚嘆していた三人の真導士達は、彼の出現をとても喜んでいるように思えた。
彼の真力は真導士の中でも高く、史上最高だと暗に言っていたのだ。その彼が歓迎されていないとは考えづらい。
ならば、きっとサキの方だ。
自分はいらないのだ。真導士の里の"落ちこぼれ"。そう言っていたではないか。
やはり、共に来てはならなかったのか。
あの来訪者が、サキを追い出そうとしていたのなら話は早い。だとすればローグは自分に巻き込まれた、ということになる。
喉の奥に苦いものが漂ってきた。
どうしよう……。
「おい、サキ。何を沈んでいる」
右手を構えつつ、ローグが文句を言ってきた。顔に出ていると言いたげな眉間の皺が、せっかくの端整な顔立ちを台無しにしている。
ああ、また怒らせてしまったと思って、さらに悲しみを募らせる。このやりとりも、彼が気を遣ってくれているのだとわかっている。だからこそ余計にせつない。
「ローグさん、わたし……」
「いい。サキがいま考えていることならわかる。……どうしてそう自分を責める必要がある」
「でも、わたしが一緒だから道を消されてるのかもしれません。ずっと一緒にいたら、ローグさんもサガノトスに行けなくなる」
「だから置いていけと? 冗談ではない、そんな真似できるか。一緒に森を抜けようと言っただろう。そもそも奴の目的がサキだと決まったわけじゃない。もしサキが目的だったとしても、真力の低さを理由に、ひどい目に遇わされて……それで道理が通るわけがない。何より俺が納得できない」
理不尽だと彼は言う。もちろん自分もそう感じる部分はあるが、問題はそこではない。
ローグに迷惑をかけているという事実が重いのだ。真円が消えた件だけでなく。とかく彼に助けられ過ぎている。
正直なところ、もう料理だけで返せると思えない。
サキは無償の愛情など知らない。村長は優しかったが、その優しさは愛情というより、長としての責任と言った方が近かった。自分が責任感と善意だけで育てられていると知ったときから、無意識におとなしく振舞うようになった。そうすれば村長に余計な手を煩わせないで済む。手を煩わせることは彼女にとってまさしく罪であった。
彼に助けられる度に、何もできない自分が虚しく思え。手を煩わせている罪悪感が、ただでさえ小さな心にかさんでくる。
「ローグさんに、お世話になり過ぎています……」
「だから、礼をしてもらうと言っている。それで俺達は対等だ。卑下する必要はないだろう」
その優しさが、痛い。
「料理で追いつかないことが起きたら、どうすればいいでしょうか。ローグさんは優秀な人で、期待もされているのに、わたしのせいで森から出れなくなってしまったら。サガノトスに着けなくなったら……。」
喉の奥にしびれるような痛みがある。
「その場合、わたしは他に何で返せばいいのでしょうか。何も持ってないんです、本当に……」
「……サキ」
自分が有しているのは、わずかに残った路銀と宿に残してきた身の回りの品だけ。もし数に入ると言うなら美しくも華やかでもない、ただそこに在るだけの……この命。
「あとは、この身を地に落とすしかありません……」
人は死ねば大地に還り、女神の造った大地を潤す。そして人々を邪悪から遠ざけ、生ある者のために最後の奉仕を行う、とされる女神の教えだ。また、その命を大地に返すのは最後の力であるがゆえ、他に方策や手段が無い時に使われる言葉である。
自分はこの時、自身にとって当たり前の知識を疑っていなかった。
「……何だと」
だからこの瞬間、不幸な誤解が生まれたことには、まったく気づけなかった。
「酷い侮辱だ。お前は――俺がそんな灰泥のような男だと、そう思っているのか?」
感情を押し殺したような、張り詰めた声音にはっとなる。明らかな怒気に心が凍りつき、自分はどこかで道を間違えたのだと知る。
ローグを侮辱したつもりなどない。ただ、サキは何もできない役立たずな自分の愚かしさが嫌なだけだ。その愚かしさのせいで、彼に迷惑だと思われるのが怖い。彼に厭われるくらいなら、その前にいっそ忘れ去られた方がましだと思える。
だが、伝えたい言葉は彼の怒りに押され、ひきつれた喉に絡まり、とうとう乾いた唇から生み出されなかった。
「そうか。……もういい」
彼女の沈黙を、肯定と捉えたのか。
それだけ言うと彼は歩き出した。怒りと諦めを内包した横顔に不安を覚える。
「ローグさん?」
声をかければ、少し歩みを緩めてくれたが振り返りはしない。
サキは焦った。
ただでさえ、足手まといなのに自分の不安を彼にぶつけて、また彼に負担をかけて……。
だからすっかり呆れられてしまったのだと、そう考えてしまった。
「待ってくださいっ……」
小走りに追いかける。その間も彼は前を進んでいく。ようやく追いついて歩みを揃えたが、彼は背を向けたままだ。声をかけることすらも憚られるような背中を見て、無性に胸が締めつけられる。
それきり。
二人は長いこと無言のまま、何もない岩場を彷徨うはめになってしまった。