蒼天のかけら 第三章 咎の果実
熟れない果実
綺麗に平らげられた皿を重ね、炊事場へ運ぶ。
食卓で残った乾き物を食べつつ、なみなみ注がれたグラスを傾けているローグがいる。ジュジュは少し前まで餌を食べていたのだけれど。どうも酒の匂いが嫌いなようで、部屋に戻ってしまっていた。
居間には入口の横に一つだけ窓があり。酒の匂いを逃がすため、先ほどから開け放たれている。ついでに室内の熱まで逃げていくから、少し肌寒い。
昼は暖かいが、夜になるとまだまだ風が冷たい。酒の影響で身体はぬくもってはいるが、皿を片づけ終えたら早々に閉めた方が良さそうだ。
そう心に決めて、てきぱきと食卓を片づけていく。
ローグは、そんな自分の様子をぼんやりと眺めている。
二人の役割分担は明確に決まっている。食卓の片づけを彼が手伝うことはないし、自分としても手伝われたくない。彼の手を借りなくてもこれくらいは一人でできる。小さな矜持であっても、自分ができることを、一つずつこなしていきたいと思っている。
今回の一件で学んだことだ。
些細な積み重ねでも。例え明らかな結果が出ないことであっても。それが道を進む一歩となるなら労を惜しまないでいたい。そうすればいずれ、相応しい相棒になれる日だって、やって来るに違いない。
しっかり眠って、すっきり晴々とした頭と体に。かつてないほどのやる気が満ちていた。
さて最後の一往復……と、炊事場から居間に戻り、食卓を眺めてから「あれ」と思った。
運びやすいよう手前に置いていたはずの皿が、もっとも遠い食卓の向こう側に並べられている。視線をローグにやれば、目を合わさないように、どこか遠くを見ている。
ああ、またやられた。
「ローグさん、いたずらしないでください」
遠くを見ているローグからの返事はこない。彼が、会話の返事を怠る理由は二つだけ。
一つ目は怒っている時。二つ目はやましいことがある時。
今回は明らかに後者だ。
「もう、どうしてそういうことをするのですか」
怒っていますと雰囲気を出して言ってみるが、楽しそうにくつくつと笑われてしまう。
普段はとても大人びていて、頼りがいがある人なのに。二人っきりになると、どうしてかこういういたずらをする。最近はその頻度が増してきており、からかわれっぱなしな気がしている。
いつになく元気な自分は、ローグを食卓から追い立てた。グラスと乾き物だけ持って、怖い怖いと長椅子に移動するローグを無視し、散らかされた皿をまとめていく。
カルデスの悪徳商人に、怖いなんて言われたくはないのだ。
胸中で呟きつつ、ようやくきれいになったと満足する。あとは、ローグのグラスと小皿だけ。
「食べ終わったら、桶の中に入れておいてくださいね」
ああ、と生返事をしてきた。確認のため、長椅子の方まで歩いて行き、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「……わかっている」
言い方にむっとしたらしく、顔をしかめて返事をされた。
そこで違和感を覚える。彼は確かに表情が豊かな人だけど、ここまで素直な表現をしたことがあっただろうか。長椅子の袖机にあるグラスを、ちらりと横目で確認する。なみなみと注がれていたグラスの酒は、もう半分以下となっていた。吃驚しつつ、再び黒の瞳をじっと見る。いつもなら真っ直ぐな視線が、どこか力なく揺れているように思えた。
「ローグさん、酔っています?」
酔っていないと言いたいのだろう。彼は首を横に振った。幼いその仕草に、危うさを感じる。
「もう終わりにして、部屋に戻った方が……」
「サキ、食べたい物がある」
脈絡のない話の流れ。ここで彼が酔っていることを確信する。あれだけ飲めばそうなってもおかしくはない。でも、酔っぱらったローグという想定をしていなかったので、意外に思ってしまう。
酔っ払いに逆らっても仕方がない。
長椅子に腰かけて、話を聞く。村の食堂でも酒を扱っており、よく酔っぱらったお客の相手をしていた。お客と言ってもお爺さんしかいないので、たいていが昔話の相手だったのだ。おかげで自分は長話をあしらうという秘技を身につけていた。こういう場合は、話を聞く姿勢が大事だ。話したいことを話させて、早々に自室へ戻らせよう。
「何が食べたいのですか?」
彼の瞳を覗き込みながら、つとめてゆっくりとしゃべる。いつもなら視線の強い彼の瞳を、こうやって覗き込むなどできない。しかし、力を失っているいまなら大丈夫だ。
彼はなぜか気をよくしたらしく、顔に笑みが浮かんだ。
「タトのリズベリーが食べたい」
「タトのリズベリー……ですか」
何だろう、それは。
酔ってはいても話が通じてないことはわかるのか、詳細な説明を加えてくれた。
「タトはカルデス湾にある小さな島だ。果物を改良しながら育てていて、それを生業としている。リズベリーはタトの特産品だ。果肉は、白く透き通った皮に包まれている。皮は付け根のところだけ朱に色づく。いかにも熟しているという色味にはならない。でもな、とろけるほど甘くて美味いんだ」
その説明で、別に抱いていた疑問が解消した。
彼は甘い物が好きなのだ。ダールの食事が全体的に甘過ぎるだけで、甘味が嫌いというわけではないようだ。お見舞いと称してヤクスが持ってきてくれていた焼き菓子を、彼がこっそり食べていたことは知っている。
現場は見ていないけど、数が減っているのでばればれだ。
「昔は、いまほど数が流れていなくて高値が付いていた。庶民では手が届かない品だったんだ。うちの実家はタトと取引があったから、稀に少しだけ分けてもらえた」
ローグが思い出を語ることは多くない。興味を引かれて肯きに力が入る。
「あの時もいつ食べられるのかと、ずっと楽しみにしてたんだが。……兄達に全部食われてしまって」
お兄さんがいるのか。家族の話はまだ聞いていなかった。
ローグはいま起こったことかのように、心底悔しそうに語る。
「気づいた時に残ったのは種だけ。それでも諦められなくて植えてみた。育てて一人占めして、腹いっぱい食ってやろうと思ったんだ。それで、町外れの空き地に囲いを作って、こっそり植えた」
幼いローグが、せっせと種を植えているところを想像して、ついつい頬がゆるむ。
「水やりの時も兄達にばれたらまずいから、迂回したり近道したりして毎日行き方を変えた」
誰にも見つからないように細心の注意を払ったと、どこか誇らしそうに語る。
黒の揺れる瞳がこちらを見た。目が先ほどよりも眠そうだ。
「だが、実際に育ててみると全然芽を出さない。いまから考えれば当たり前なんだけどな。三日くらいで辛抱が切れて、種を一つだけほじくり返してみたんだ」
案の定、芽は出ていなかったと彼は笑う。
それでも諦めきれずにまた植え直したというから、その執念はよっぽどだったのだろう。
衣擦れの音がして彼の右手が頬に触れてきた。常よりさらに高くなっている体温が、左頬に当てられる。
「ローグさん?」
「時間をかけなければ、駄目なのにな……」
瞳が揺れる。
揺れる黒の波間に、熱を帯びた光がうっすら見えた気がした。
「毎日水をやって。余計な草を取って。虫を掃って。時間をかけてゆっくりと……」
頬が下から上へなぞられる。嫌悪は感じていないのに鳥肌が立った。
「な、に……」
「日が強過ぎても駄目。風に当て過ぎても駄目だが、一切当たらないのはもっと駄目で。加減が難しい」
彼が深く息を吐き出した。
「結局、全部枯れた。食べたかったのに、一口も味わえなかった……」
悔しいと口にするが、表情はあまりにもせつなくて。
心音が勝手に高まってしまう。
「サキは、リズベリーに似ている」
熱を孕んだ親指が、ゆっくりと唇を撫でた。その感触を頭が受け入れきれず、視界が白く焼けていく。
「甘そう」
低い声が、近づいてきた。
恐怖でも嫌悪でもない何かが、足下からじわじわと沸き立ってきて、反射的に後ろへ下がった。ローグは、逃げた理由がわからないと言いたげな、せつない表情のまま首を傾げていた。
負の感情はどこにもない。けれど彼の近くに居たらまずい。何がまずいのか正確には把握できていない。でも、とにかく距離を置かないとまずい。
「サキ」
「あの、わたしもう休みます……」
揺れる黒が、わずかに細められた。
「どうして?」
彼が立ち上がる。そして隙を逃した自分の目の前にやってきて、腰を屈めた。口調はいっそあどけない。それなのに長椅子に抑えつけてくるような圧迫感がある。
両腕が長椅子に掛けられた。きしりと背もたれが鳴る。
ついに彼の檻の中、身動きができなくなってしまった。