蒼天のかけら  第三章  咎の果実


一の鐘


 真導士の里サガノトスでは、時刻を知らせるための鐘が、一日に五度鳴る。
 日が昇り、夜の暗さがすっかりなくなったら一度。朝の気配が消えた頃に一度。
 日がちょうど真上に差し掛かった時に一度。夕刻に一度と、日が完全に落ちたら最後に大きく三回鳴って、それが全てだ。
 それぞれに"一の鐘"、"二の鐘"という名称が付いており、最後の鐘だけ"闇の鐘"と呼ばれている。

 里に住む者達は、その鐘に合わせて行動する。
 学舎で座学がある時は、"二の鐘"が鳴る前に講義室へ入るという決まりだ。
 "一の鐘"を聞いてから家の片づけを一通りし。それから学舎に向かうという流れを作っていた。
 だが今日は実習――特別な日だ。
 "一の鐘"が鳴ったらという連絡だったので、片づけを早めに済ませ。鐘が聞こえたらすぐに家を出てきた。昨夜、冷たい雨に降られたためか、大気はすっかり熱を奪われて、冬のような寒さとなっている。最近はあたたかい日が続いていたので余計に寒く。思わずローブの襟元を合わせた。
「今日は冷えるな」
「はい、本当に……」
 家から学舎までの慣れた道を二人で歩く。座学の時刻まで時間がある。朝早い道に人影はない。
 歩きながら一度家を振り返る。どうしても残してきたジュジュが気になってしまう。自分が家にいる時は、部屋の隅でのんびりと過ごしているのに。何故か出掛ける気配を察知すると、大急ぎで足元にまとわりついてくる。
 置いて行かれるとわかるのだろう。必死な様子ですり寄って、連れて行けとごねるのだ。あまりに愛らしい姿のため、心は大いに揺れ動く。けれど、学舎に連れていくのは無理だ。
 しかも今日は初仕事。いい子にしていてくれと言い含めて、半ば逃げるように家を出てきた。悲しそうな鳴き声がまだ耳に残っている。

「ジュジュが気になるか」
「はい。あの子は甘えん坊なので……」
 餌と水は置いてきた。ああ、でも一人にして大丈夫だろうか。帰ったら存分に甘やかしてあげなければ。
「サキにしか懐かないからな、ジュジュは」
 先ほどの苦労を思い出したのか、ローグが疲れた表情を浮かべた。まとわりつくジュジュを、ローグが抱き上げている間に外へ出て、どうにか家を脱出してきたのだ。
 ジュジュは撫でられるくらいなら彼に抵抗しない。しかし、抱き上げれば大暴れする。自分が居なくなるとわかっているなら尚更だ。
「ローグさん、大丈夫でしたか」
「まあ……。しかし、これからあれを毎朝やるのは大変だ」
 眉根を寄せて空を睨むローグを見て、思わず苦笑する。

 ローグが睨んでいる空は、灰色の薄い雲で覆いつくされている。今日は日の光を望めなそうだ。
 角を曲がれば、学舎の門が見えてきた。遠目からも一つ人影があることはわかる。髪の色から見てキクリ正師だ。
「わたし、緊張してきました。ローグさん」
 説教臭い本の訓練は開始されている。まずは、考えていることを否定せず素直に話すこと。お互いにだけという条件を付けてあるので、何とか実践まで漕ぎ着けた。多少、恥ずかしさで気遅れする。でも、ローグだけなら大丈夫そうだ。
「実は俺もだ……。楽しみでもあるけどな」
 ローグも合格。
 むう、なかなか手強い。やはりすっかり開き直ってしまったのだろうか。惜しいことをと思う反面、自分だけ特別なのだという思いもある。甘い優越感は、抱いている寂しさを少しだけ癒してくれる。
「ところでサキ。"ローグさん"は、そろそろ辞めないか」
 突然言われて、目を瞬いてしまった。他人行儀だと抗議してくる彼に、返す言葉が見つからない。
「相棒は対等な関係のはずだ。どうも"さん"を付けられていると、サキがへりくだっているように思える。そろそろローグと呼んでくれてもいいだろう」
「よ、呼び捨てですか?」
「俺はそうしている。何故サキが呼び捨てにするのは駄目なんだ」
 何故と言われても困る。これは村にいる時からの癖だ。何せ村には年上と言うのも憚られるような、老人しかいなかった。呼び捨てにするような相手を持ったことがない。例外はジュジュくらいだ。
「ローグと呼べなかったら、一点だ」
「……ずるいです。勝手に追加するのは駄目です」
「いやだ、これは譲らない。気になって仕方がなかったからな」
 ふふんと、ご機嫌になった彼は、昨日負けっぱなしだったのを引きずっている様子だ。自分に負けず嫌いを発揮してもどうかと思う。その後、いくら抗議しても撤回はしてくれなかった。

 わいわいと騒ぎながら歩いていたら、かなり距離のある位置からキクリ正師に気づかれた。おはようと声を掛けてきた正師に、一礼をして挨拶をする。
「もう身体の具合はよくなったのか」
「はい、ご心配おかけしました」
 自分の返答にそうかと応えて、正師はローグに視線を移した。
「今日の実習は、"迷いの森"ほど大変ではない。だが、もし相棒が体調を崩すようなことがあれば、すぐに報告するよう」
「承知しました」
「では、他の者が集まるまで近くで待機していなさい。全員集まったら実習の詳細を説明する」

 門の傍で待っていれば、ちらほらと人影が見えてきた。
 あまり他の導士を知らないので、自然と緊張が高まってくる。あの本の規則には、他にも「正負に関わらず、自分の感情をまず受け入れること」と書かれていた。否定と迷いは、気力を損ねる第一の要因だ。
 一つ、深呼吸をする。

 ――大丈夫。

 昨日抱いた強い気持ちは、まだこの胸にある。
 だからきっと、今日も大丈夫だ。
 踏みしめた確実な一歩は、自分の心に刻まれている。その確信がほんの少しだけ自分を強くした。
 学舎に来るたび伏せていた顔を、ぐいと引き上げて前を見る。ローグと目が合い、わずかに笑った彼に小さな微笑みを返した。
(きっと、相応しくなってみせる……)
 胸に秘めた生まれたての夢を、そっと両手で包み込んだ。

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