蒼天のかけら 第四章 罪業の糸
約束の刻
彼が帰宅していることはわかっていれども。居間に向かうには勇気が必要だった。
鏡の前で右往左往する。視線は狭い部屋の中で、逃げ道を探るように泳いでいる。どうしよう。どうしようと。落ち着きを欠いた頭で反復していたら、軽快に扉を叩く音が部屋に満ちた。
「サキ、いるだろう」
いつも通りの口調なのに、観念しろと言われている気がした。骨まで固まってしまった自分の身体は、直立不動の状態で棒立ちになっている。動けはしない。
それなのに、扉の外から駄々をこねる様な声が響いてきた。
「なあ、腹が減った。早く飯にしよう」
口の中は、からからに乾いている。返事を無理に絞り出せば、喉が裂けてしまいそうだった。
しばしの沈黙。
これでは完全に居留守を使っているようなもの。自分の態度は大変失礼であるとは思う。ただ、どうしても身体が動かない。
部屋にいれば、ローグの顔を見ることすらない。互いの部屋には、許可なく入らないと約束をしていた。自室にいれば、この先に待ち受けているものを、遠ざけておくことができるのだ。
だが、その行動はまさしく彼への拒絶。
ローグを拒絶する気持ちはない。だってこんなにも寂しい。毎日時間を重ねていても、一向に治まることがない寂しさは。彼に起因していると把握はしていた。
そこまで考えて、焦りが胸を占めていく。
このままでは誤解される。
ローグを拒絶したと思われてしまう。拒絶を受けたら彼はどうするのか? 自分の傍から離れて行ってしまうかもしれない。そうしたら、こんな風に呼んでもらえることも、なくなってしまうに違いない。
骨を固めていた緊張を、全身に廻った焦燥が粉々に砕いていった。
足が、一歩だけ前に進む。
焦りに押されつつ、わずかな一歩を繰り返してそろそろと扉へ向かい、扉に手を掛ける。この家の扉にノブはない。そっと手を重ねただけで真力を感知して、抵抗もなく開いていく。俯いたままゆっくりと扉を開いたら、ローグの足が視界に入ってきた。
息が止まる。
扉に重ねていた手を離して、身体が勝手に後退しようと動き出した。しかし、ほとんど無意識のその行動は、逃げる手を絡め取る力に遮られた。
前につんのめるようにして自室から出され、そのまま目の前にある白い布に落とされる。背に腕が回されたと同時に、後ろで扉が閉まる音がした。一連の流れの中で彼の胸に飛び込んだ顔を、ローブに埋めて擦りつける。
どうしても顔を合わせられない。
「捕まえた」
微笑混じりの低い声を聞いたら、如何ともしがたい顔の熱を感じた。
逃げ道は、最初からなかったのだと悟らざるを得なかった。
背に触れている手は、気持ちを宥めるようにやさしく置かれていた。その感触を感じながら、目を閉じる。動揺をさせているのは彼なのに、安心をくれるのも彼なのだ。理不尽な現実は、ひたすら胸を締め上げていく。
苦しさに堪えようと、顔をローブに埋めて動きを止めていたら、ぽんぽんと軽く背中を叩かれた。
「昼飯にしよう。さすがにもう待てない。喫茶室では何も食べて来なかった」
動揺の気配など、微塵もしない低い声。普段と同じような会話なのに、言葉が出てこない。
仕方なしに、肯きだけで同意を伝える。
昼食の時も、ローグは普段通りだった。
口数が少ない自分を咎めることもせず、喫茶室での話を伝えてくれる。開けられた窓からは、気持ちのいい風が入り込んできていた。
もしかしたら、長身の友人が訪ねてくるのではと期待していたけれど、その気配はまったくしなかった。外を見ているのがわかったのだろう。苦笑を浮かべた彼が、食事を終えた皿を食卓の端に並べながら言った。
「ヤクスは来ない」
心を読まれたことに驚き、つい視線を合わせた。
「ジェダスとティピアもだ。今日は誰も訪ねて来ないようにした」
黒の瞳が、心を射抜いていく。
一度合わせたら逸らせない。わかっていたから今日はずっと、目を合わさないようにしていたのに。
「……そろそろいいか?」
穏やかに言われたが、それでも覚悟が決まらない自分は、時間を生みだそうと無駄な努力をしてしまう。
「か、片付けます」
せめて食卓を片づけるまで。皿を水に浸けておかないと、汚れが落ちにくくなる。
届かない言い訳を、頭の中で浮かべた。
「わかった」
そう言ってローグは席を立つ。そのまま風を取り入れている窓を閉めて、長椅子に移動した。脇机に置いてあった書物を開き、目を通しはじめる。
堂々とした彼の有様は、自分の気持ちを追い立てていく。無言の圧力に急かされて、手早く皿を重ねた。
これ以上はきっと待ってもらえない。真導士の勘は、こんな時まで働き者だ。
皿を持ち、炊事場へ向かう。小分けにしてもせいぜい二往復の作業に没頭していく。桶に皿を入れ終えて、炊事場から小ざっぱりとしてしまった食卓を眺める。居間の手前で棒立ちになっていたら、長椅子の方から視線を感じた。
おずおずとそちらに目を向ければ、本を脇机に片付けた黒髪の相棒がこちらを見ていた。
左手が長椅子の上を示す。
ここに座れと導かれ。ついに覚悟ができなかった心を抱えたまま、ふらふらと足が動いていく。
真っ直ぐ前を向けずに、自分の足元を見ながら長椅子へと向かう。慣れてきた家の中。前を見ずとも方向を間違えることはない。
目的地に到達し、足先に視線を落したまま腰を下ろした。隣にいるローグの気配を感じながら、膝の上に両手を置く。呼吸を整えることは難しそうだ。
「もう、待ったはなしだからな」
締め切られた部屋の中、ローグの声がやけに大きく響いたように思った。