蒼天のかけら  第四章  罪業の糸


未知の領域


「最初に言っておく」
 ローグの声は、封鎖された居間の中でよく通った。
「今日は話を聞いてくれるだけでいい。ただ今朝言った通り、逃げたり否定したりは絶対にしないでくれ」
 自分には人の気持ちを悪い方に作り、勝手に落ち込む癖がある。指摘されるまで気づかなかった悪癖は、時として心の隠れ家として利用していた。自分だけで作られたそこは、自分が思っている以上に辛いことは起こらない。とても安全な場所でもあったのだ。
 ローグは、その悪癖をよく知っている。最近は逃げ込むことがなくなった隠れ家への道を、念のためといった具合に塞がれる。
 まな板の上に乗せられた、魚の気分だ。もはや何をすることもできず。自分に与えられるすべてを受け入れるしかない。
 膝に置いた手を、ぎゅっと握り締める。膝に掛かる長さの導士のローブ。様々な守護が籠められているそれに、いくつもの皺が刻まれる。きつく強張った手の上に、彼の手が重ねられた。込めた力を解くように、ゆっくり撫ぜられる。
「……そんなに怖がるな。怯えさせたいとは思っていない」
 ローグが怖いわけではない。
 その気持ちを伝えたくて、ゆるくかぶりを振った。

 彼から、吐息のような笑いがこぼれた。
「真導士とは便利なものだな」
 手を撫ぜていた彼の手がゆったり持ち上がり、その甲で右頬に触れる。
「真導士の真力は、よく検分すれば一人一人まったく気配が違う。相棒を組むのは、真力を互いに馴染ませるため。馴染めば馴染んだ分だけ、相棒の考えがわかるようになっていく。そうすれば協働しやすくなるらしい」
 頬をやさしくなぞる手は、そのまま右耳を隠している一房の髪に流れた。
 添え髪は、人前に出さない後ろ髪の代わりに、女の色を飾るためにある。年頃の娘達は、装飾具で添え髪を飾り、男達に自分の華やぎを伝えるのが普通だ。
 しかし、自分はそういった装飾具を持ち合わせていない。わずかに香油を伸ばし、梳いてあるだけの添え髪に、ローグが指を搦めながら触れている。腰辺りまで伸ばしている後ろ髪と、まったく同じ長さの添え髪は、弄ばれるたびにゆらゆらと揺れて、頬をくすぐる。恥ずかしくて堪らないが、このまま触れていて欲しいとも思う。
「最近サキの考えが、わかるようになってきた。……こうやって髪に触れても、嫌がられていないことはちゃんとわかる」
 心を透かし見られている。いたたまれない事実に身を固くした。
 触れていて欲しいと願ったことまで、知られてしまっただろうか。はしたない娘だとローグにだけは思われたくない。
「俺の考えも、サキはわかっているのだろうな」
 そう、わかっている。
 実習の時だって、彼の考えが透けて見えていた。これが相棒の絆なのだろう。
 互いに支え合う。それを前提としている二人の関係。
 そうか、だから気付いてしまったのだ。彼の真力に潜むその光に。彼の心は、種火のような光となって黒の瞳に映ることがある。いまこの時も、ローグの瞳にはあの炎が宿っているのだろうか。
「わかっているから、そんな顔をしているのだろう?」
 断定的な物言い。それを打ち消す言葉を、自分は持ち合わせていない。
 訪れた静寂。二人の息づかいだけが生まれては消える。髪に触れている指が、耳朶を掠めた。我慢できない震えに身体が支配されていく。厭う気持ちはない。そうと知られていることだけが救いだった。
 突然、髪を弄んでいた指が外れ。いきなり肩を抱き寄せられた。
 熱い呼気が、首筋に当たる。
「そうだとしても、気配なんて曖昧なもので伝わっているのは、どうにも性に合わないから――直接言う」
 彼の両腕に包まれる。馴染み深い彼の体温と、胸に生まれた鈍く甘い痛み。目を閉じてその世界に酔う。あたたかい場所で守られながら、そこにある幸せに慄きを覚えた。
 幸福は恐怖と近い気配をしていると、誰も教えてはくれなかった。

「サキが、好きだ」

 夢中で彼にしがみつく。
 怖い。
 怖くて、怖くて、耐えられない。
 こんなに幸せで許されるはずがない。
 幸福と恐怖の渦は、自分のすべてを飲み込んでいく。
「好きだよ」
 心の奥深くまでにも触れさせてもらっている。でもどうしてだろう、寂しさが消えてくれない。こんなに近くにいるのに寂しい。自分はやはり悪い病気になっているのだろうか。
 身体の奥にある色々な感情がない交ぜになって、滲み出てきてしまう。
(なんで……)
 流れ出した涙は、白のローブに吸い込まれていく。知られたくないと顔を俯かせてみたが、彼が見逃してくれるはずもなかった。
 両手で顔をすくい上げられ、涙を確認される。
 強い力を秘めた黒の瞳。その奥にはやはり炎が灯っていて、黒の中に映り込んだ自分を照らしている。
 彼の瞳の中――閉じ込められて抜け出せない。途方に暮れた娘の顔が、はっきりと見えた。いつの間に吸い込まれてしまっていたのか……。ここにある身体は、すでに脱け殻だったのだ。
 道理で指一つ満足に動かせない。このまま彼のぬくもりに捕らわれ続けて、いつかこの場所で朽ちていくのだろう。
 そんな自分を、どう捉えたのか。憂いすら浮かべてローグは言う。
「戸惑わせると、わかっていたんだがな……」
 熱い親指で、丁寧に涙を拭ってくれる。
「サキの気持ちが追いついてないのも知っている。前にも言ったけど、俺はまだ待てるから……サキはゆっくりでいいんだ。嫌なら嫌だと言ってくれ。そうしたらちゃんと弁える。この気持ちを強いることはないから」
 そんなこと言わないで欲しい。黒の檻に閉じ込められた心は、もはや自由に羽ばたけない。たとえ抜け殻のこの身だけ解放してくれたとしても、捕えられた心は帰ってこないだろうに。
 何て、ずるい人。

 そっと彼の顔が近づいてきた。そっと額が合わさる。真眼を通して気配に触れ合う。誰よりも近いこの場所で、どこよりも無防備な互いの内側を探る。
 白の世界が眩しくて目を開いていられない。本能に従い瞼を下ろし、声の響きだけを追いかけていく。
「よかった……。やはり嫌われてはいないようだ」
 安堵の吐息。自分の心を口に出されるのはとても恥ずかしい。
 羞恥を掻き消そうと、彼の真力に集中する。ローグの真力はあまりに膨大で、終わりが窺えない。まだ見たことはないけれど、これは話に聞く海そのものではないかと思う。穏やかで激しいその気配は、彼によく似合っている。
 熱い真力の海に、荒れた波間がある。表には出てこない彼の動揺を見つけて、自分の胸が甘く疼いた。
「サキの気配は複雑だ。まだまだ読めないところが多い」
 当たり前だ、ローグがかき乱しているのだから。いまの自分の真力など混沌そのものだろう。もう戻し方がわからない。真力と気力を整えなければ、真術は使えないのに。
 何てことをしてくれるのか、わたしの相棒は……。
「……そんなに不安がるな。どうしたら消してやれるんだろうな、これは」
 真眼越しに、ローグの真力が揺れるのがわかった。自分を案じる彼の気配があたたかい。その気配を深く感じたくて、自ら額をすり合わせた。
 ぬくもりが心地いい。
 もっと、触れさせて欲しい。

 そう願ったのに、急に額が離れていってしまった。唐突な別離のせいで寂しさが大きく膨らんだ。悲しくて視線だけで抗議をすれば、悪徳商人殿が困り顔となった。
「待つと言ったからには、信頼を裏切る真似をしたくない。あまり無防備にならないでくれ」
 のぼせた頭では、正しく彼の言葉を把握できなかった。
 首を傾げて、意味を問う。
 すると、瞳の中の炎が大きく揺らいだ。困惑の気配を漂わせたローグは、天井をしばし睨んで目を閉じた。
「サキの気持ちが育つまではと、思っていたのだが……」
 諦めたような言葉の意味を理解する間もなく、涙に濡れた瞼に口付けが降ってきた。
 幸せと恐怖で眩暈がする。
 そのまま強く強く抱きしめてきたローグは、サキが悪いと拗ねた声で呟いた。



 未知の領域に踏み出した二人。
 麗らかな季節の日差しは、重なる白のローブを鮮やかに照らしていた。

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