蒼天のかけら  第四章  罪業の糸


淪落の魔導士


 血臭が満ちている。

 気力を整えようとは思う。けれど、赤に染まった大気を吸い込むことが恐ろしい。絶えず放たれている闇色の凍えた真力。その中心に、人影が佇んでいる。
 視界の中、ただ一つだけ咲く――白。

「どうだ」

 のろのろと声がした方に顔を向ける。
 深い青に濡れた髪。その奥から冷酷な青銀が、自分を見つめていた。
「これが真導士の里だ。大部分の者には縁がない光景ではあるが、常に存在し続ける暗部。素晴らしいものだろう」
 そう言って、バトは薄ら笑いを浮かべる。皮肉な言葉には、多分に自嘲が混じっていた。
 残酷な光景。衝撃を受けて止まりかけていた心臓の近くで、軋む感情が生まれたのがわかる。耳鳴りが響く中、真眼がバトの姿に集中していく。気配の中に、引っ掛かる何かがある。
「真導士など早々にやめてしまえ。お前のように真力低き者にとって、里は生きづらい場所。一時は辛いやも知れぬ。だが、知己などすぐにできる。情に引きずられず素直に町へ下りろ。力の弱い人間が真導士として生きていけば、いつ命を落としてもおかしくない」
 気づかなかった。
 秘められた気配を、いままで感じ取ることができなかった。男の真力にすっかり掻き消されていた気配が、自嘲混じりの声に反応して、じわじわと膨らんでいく。男の凍える気配とは別の、春の日差しのような柔く小さな気配。
「死んだら何にもならん。悔いたところで誰も救ってくれはせぬ」
 自分を眺めながら幻を見ている男の瞳と、見つめ合う。男のローブの下。ちょうど心臓に当たる位置から、春がこぼれているのを感じていた……まさにその時。
 絶叫が耳の奥に届いた。強過ぎる警告に思考を奪われる。

 バト、逃げて――。

「危ない!」
 自分が叫んだのだと認識したのは、白が大きく爆発した後だった。そそけ立つような気分の悪い真力が、大気中に満ちていく。胃の腑が、焼けるように痛い。
 眩しさに苦戦しながらも、先ほどまでそこにいたバトの気配を追いかける。
「バトさん!」
 血濡れた場所に立っていた男は影も形もない。白が咲いていたはずの位置に抉れた床を見つけ、顔が青ざめていくのがわかった。
「そんな……バトさんっ!」
 立ち上がろうとして無様に転ぶ。膝に力が入ってくれない。這いつくばりながら進み、立とうとしたところで声を聞いた

「バトねぇ……。嫌な男に見つかったものだよ」

 弾かれたように顔を上げ、その人物を見つけた。
「おやおや、これはかわいらしい狩人さんだ。お嬢ちゃん、私を追いかけて来てくれたのかな」
 鳥肌が全身を埋めていく。
 眼前にあらわれた人物の額には、輝く円が見えた。いまにも自分を噛み砕き、飲み込んでしまいそうな。あまりに激しい凶暴さを秘めた真力。隠そうともしていない獰猛な気配は、真っ直ぐにこちらへと向かってきている。
「それにしてもおかしいねぇ。"鼠狩りのバト"は、単独行動だと聞いていたのだけれど……。片翼でいることに飽いたのか」
 一歩一歩近づいてくる人物から逃れるべく、這いながら後退する。
 立ち上がる余裕もない。強い気配を真正面から受けたせいで、こめかみの激しい痛みを味わう。
「貴方は……?」
 真導士だろうとは思う。しかし、何とも禍々しい。
 それに、真導士の証である白のローブを着ていない。全身を派手に飾ったこの人物は、宝玉を散りばめた指で自身の髪をいじっている。
 細身ながらも背は高く。女物の長く黒い上着を羽織っているが、声は男性だ。髪は染色がされており、白、赤、黄がひどく複雑に入り混じっている。道化者のようなその外見から、何者かを判別するのは困難だった。

 道化者は自分が出した誰何に、金の目を細めてにんまりと笑う。
 鳥肌が一層ひどくなっていく。
「私? 私の正体など知っているはず。ねぇ、狩人のお嬢ちゃん」
「……"出奔者"ですか」
 問いかけてみれば、実に嫌そうな顔をして大げさに首を振る。
「無粋な言葉を使うねぇ。何者にも縛られない、名もなき旅人だとでも言っておこうか」
 バトが追いかけていた"鼠"とは、きっとこの人物のことだろう。
 "片生の魔導士"とは、比べ物にならない真力。元は里の真導士であったはずの"出奔者"が、目の前に立っている。

「おや? よく見ればその姿、導士なのかい。これは驚いた。なぜ導士が"鼠狩り"の任務に随行しているのか。めずらしいことだ」
 全身を嘗めるような金の視線が、気持ち悪い。
「いいねぇ、その怯えた琥珀。実に愛らしい……。めずらしい物であれば手にしたくなるもの。どれ、今日の記念に抉り取って持ち帰ってみようか」
 息を吸い込んだ拍子に、笛のような音が出た。
 怯えを楽しんでいる人物が、もったいぶるように腕を上げる。深紅に色づけされた長い爪が、目に向けて伸ばされてきた。自分に襲いかかる凶器から逃れられず、視界を深紅が覆っていく様をひたすらに見つめる。

「尻尾を出したな――"鼠"」
 凍えた声が帰ってきた。
 振り返った拍子。舞い散った色とりどりの髪に、白が強く反射する。横から吹きつけてきた突風。突如として起きた風に、身体が巻き込まれたのを感じた。回る視界の中で荷箱を見てとり、叩きつけられる衝撃に耐えるよう反射的に身を丸めた。
 固い衝撃を予想していた。しかし、思った以上に柔い。綿に包まれるような感触を受けて、目を見開く。
「バトさん!」
 真術の風で飛ばされた自分を、凍えた真力を放つ男が受け止めた。長い白のローブに巻き込まれながら着地し、無事であった高士の顔を見る。呼ばれたバトは、派手な人物を見据えつつ自分を床に下ろし、白の壁となって眼前にそびえ立つ。
「やはり、あれだけで倒せるはずもないか……」
 笑いを浮かべながら、乱れた長い髪を神経質そうに整える男。輝く額から、獣のような真力がさらに強く放たれる。怖気が走るような気配を、バトは眉一つ動かさずに受けていた。こんなにも強い真力なのに、青銀の真導士から余裕は失われていない。
「ここもお終いだ。せっかく定住できる場所を見つけたのに、ひどいことをする男だね。"鼠狩りのバト"」
「害獣に安息の地があるわけなかろう。大人しく駆除されるがいい」
「本当に里の連中は無粋な輩が多いねぇ。人のことを"鼠"だの害獣だのと……。"淪落の魔導士"も許しがたいが、獣扱いはもっと許しがたい。そう思わないかい、お嬢ちゃん?」
 金の瞳の人物が、舌舐めずりをしながら自分に問う。
 駄目だ。
 この人の気配は、気持ち悪くて耐えられない。治まらない鳥肌とこみ上げてくる吐き気のせいで、身体から力が失われていく。
 目の前で白の袖が持ち上がった。かばうように上げられたバトの腕から、凍える真力が伝わってきた。
「俺を無視するとは余裕だな。"淪落の魔導士"ラーフハック」
 バトの言葉を聞いて、大げさに両手を上げ肩を竦めた男――ラーフハックは、金の瞳に喜色を浮かべる。
「久々に聞いたね。もうとっくに捨てた名前だと言うのに……。本当に無粋な男だ"鼠狩りのバト"。いや"片翼のバト"と呼んだ方がいいのかねぇ。まさかそのお嬢ちゃんが、新しい翼でもあるまい」
 バトの気配が、より一層冷たさを増した。
「相棒が居ないことに飽いたのかい?」

 相棒が……居ない?

 ラーフハックの言葉は、バトを挑発するのに十分な力を有していたらしい。
 真夜中の真力が、いっせいに放たれる。
 大気が冷気に染まっていく様を、ラーフハックはただ楽しそうに眺めている。耳の奥でまたも声がする。耳鳴りに混ざって聞こえる女の声。思考が引かれる。眩暈ではない眩みが呼吸するたびに起こって、自分を保つのが難しい。
(何……これ?)
 危機を警告するのとは違う。そしてあの懐かしい青とも違う。
 不安になる感覚。

「"第三の地 サガノトス"の名において、貴様を断罪する。覚悟せよラーフハック!」
 "淪落の魔導士"に立ち向かっていくバトの背中を見て、胸の奥の軋みが激しくなる。確かに自分の中にある感情なのに、意識を塗り潰されていく恐怖が止まらない。


 わたしは

 あなたは

 誰――?

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