蒼天のかけら  第四章  罪業の糸


断罪の刻


 背中に汗が、びっしりと浮いてきた。

 黒髪の相棒は、場にあらわれて一礼し。そのまま隣に立っている。
 お馴染みの無関心な表情のまま、一言もしゃべらない相棒の存在は、いまの自分にとってあまりに圧迫感がある。思わずごくりと唾を飲み込んだ。
「今回の一件。この者にはすでに話してある」
 慧師の言葉は、緊張を否応なく高めていく。
 今回の一件とは"暴走"の件だろう。ということは術具を買いに行ったことは、ばれている。……つまり自分が嘘をついたことを、彼はすでに承知している。
「追放となれば相棒にも影響が出るゆえ、黙っておくわけにもいくまい。任務の詳細は聞かぬと承知したので、階下に控えさせていた」
 任務が終了するまでの間、この中央棟で彼はずっと待っていたのだ。真眼を閉じてしまっていて、感情を窺うのが難しくなっている。どんな気持ちだっただろうか。
 とても想像が追いつかない。
 苦い気持ちが湧いてきて、申し訳なさで潰れてしまいそうになる。

 怒って、いるだろう……。

 彼の怒りが恐ろしい。
 はっきりいって、バトの苛立つ背中よりも断然恐ろしいと思う。
 そして、恐ろしさ以上に辛い気持ちになる。あんなにも自分を案じてくれていた相棒を、裏切ってしまった……。自分の犯した罪の重さに、頭が自然と垂れていく。

「さて、ローグレストよ。お前の相棒は無事帰還した。同行した高士からも、任務遂行の一助になったとの報告は受けている。真術を取り戻したようでもあるので、真導士として里に置いておく条件は満たしている」
 慧師はそこで言葉を切った。
 夕日が差し込む執務室の中に、静寂が降り立った。
「とはいえ"暴走"を起こしたとなると、お前との協働では注意が必要になる。相棒は互いに支え合うもの。この者が真術の制御を行えない場合、それはお前にとって負荷となる。ゆえにもう一度だけお前に選ぶ機会をやろう」
 手の平をきつく握り込んだ。
 爪が食い込む痛みで、自分の意識を現実に繋ぎ止める。
「それでも、この者と相棒を組むか」
 唇を噛みしめて、断罪の言葉を待つ。
 鉄の味が口腔に広がり、胸の奥の苦みが増した。

 隣から、笑う気配がする。
「何度聞かれても俺の気持ちは変わりません。彼女以外と相棒は組まない。誰が何と言おうと、俺の相棒はサキだけです」

 目を閉じて、その低い声と言葉に酔う。
「よいのだな」
「はい」
 返事を聞いて、さらに強く唇を噛んだ。
 痛みが必要だった。
 痛みを受けていなければ雷に打たれてしまうと、馬鹿なことを考えていた。
「相わかった。ではこの一件は白紙とする。最後に念を押すが、もう"暴走"などは引き起こさないよう」
 下がってよいと言われて、二人して一礼をした。
 執務室から退出する時も、顔は上げられなかった。

 扉の外でキクリ正師にぽんと肩を叩かれる。疲れているだろうから送ると言って、家の前まで転送してくれた。
 帰ってきた我が家は、朝出かけた時と何一つ変わっていなかった。穏やかな季節の中、ゆったりと佇んでいる。扉が開けられる音がした。彼の手を背中に受けながら、家に足を踏み入れる。
 帰ってきた。
 帰りたくてたまらなかった日常へ、ついに戻ってこられた。
 胸中で、女神への感謝の言葉を捧げる。

 扉が閉まった途端、ローグに強く抱きしめられた。
 熱い彼の首筋に、自分の頬があたる。馴染み深い彼の体温。……幸福感と恐怖があふれてくる。
 強く、強く、骨が折れそうなほど抱き締められている自分。もうこのまま死んでもいいと、本気で思ってしまった。
 ふいに力がゆるみ、忘れていた呼吸を取り戻す。
 大気を失いかけた頭を抱え、導かれるまま長椅子に座った。冷え切った両手を熱い手が握り込み、ローグの額に当てられる。
 目の前に跪き、俯いたまま微動だにしない彼に、掛ける言葉が見つからない。伝えたい言葉が山ほどあるはずなのに。苦みに満たされた喉で詰まって、声にならない。

「全部聞いた……」
 絞り出された低い声。その声音に、罪の重さが増していく。
「これで、結構落ち込んでいる」
 両手を握り込んでいる手に、また力が加わった。
 傷つけてしまった彼。自分の大切な相棒に、どんな言葉を伝えればいいのだろうか。
「謝らないでくれ。余計落ち込みそうだから、それだけはやめてくれ」
 もっとも適切だと思っていた言葉を拒否されてしまった。為す術もなく。しばらくの間、荒い呼吸をしているローグの黒髪を眺め続ける。

「怒らないのですか……」

 謝れないのならば、彼の怒りを受け止めて当然だと思った。それだけのことをしてしまったし、そうして欲しいと思う気持ちもあった。
 言葉を聞いて、ようやくローグが顔を上げてくれた。
 黒の瞳の奥に、心の炎が頼りなく揺れている。胸にある渦巻く感情が、自分の不甲斐なさを詰っていく。
「怒れないんだ……。そんな気配をしていたら、とてもできない」
 彼の返答は、想定に入っていなかった。
「自分で、気づいていないのか?」
 苦しそうな彼の瞳が心配で、ローグが何を案じているのか察することができない。頬を彼の両手に固定され、額を合わせられる。
 熱い彼の体温と、開かれた真力の海。真眼の中へ、溺れるように意識を投げ込んだ。
 どこまでも広がる真力の中。慈しまれる幸せと恐怖に浸って流れる。
「何があったか、聞いてはいけないと言われている」
 完全黙秘を前提としている任務。
 里の中ですら、口外をしてはいけない闇の秘密。
「だから何も言うな。……でも、真力に触れるなとは言われていない。せめて触れさせてくれ」
 昨日までは穏やかだった真力の海は、嵐でも来たかのように高く波打っていた。ローグの心をあらわしている悲しい光景に、いっそ飲まれてしまえばいいと願う。
「怖い思いをしてきたんだろう。こんな気配、昨日まではなかった……」
 目を見開いた。
 彼がなぞったその個所が、何を指しているのかわかってしまった。記憶が脳裏を走っていく。
 飛び散る鮮血と、転がる肉片――人であったはずの滴る塊。
「あ……」
 引きずられて行った断罪の場。
「や……だ……」
 視界に広がる深紅の凶器……金の瞳。
「いや……やめて」
 なぞられるおぞましい記憶。
 彼が気配に触れるたび。掘り起こされる、それ。
 思い出したくなくて、暴れて逃れようとしてみたが。力では叶わず長椅子の上に横たえられ、身体を固定された。長椅子の柔らかい感触。
 その柔らかさが、もっとも恐れていた記憶を紡いでしまう。
「離して……離して!」
 春のような柔い気配。あの人を案じる女の声。
 塗り替えられてしまう。
 同じように悩み、苦しみ、重なる心。
 意識が奪われる。
 気持ちを、奪われて……いく。
 わたしが――消える。

「いやあ!」

 自分が自分でなくなる恐怖に、叫びを上げる。
「サキ」
 がむしゃらに暴れて、それから逃れようとしても。塗り潰されていく恐怖に勝てない。
「いや、嫌だ! 返して……返して!」
 わたしの気持ちがなくなる。わたし以外の誰かに消されてしまう。
 この気持ち、大切なわたしの――。



「こんなの――嫌だ!」

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