蒼天のかけら  第五章  邂逅の歯車


記憶の中の心


 今日もいい天気だ。
 汗ばむような陽気とまではいかないけれど、少しずつ夏の気配が近づいてきている。

 昼食を終えた自分達は長椅子に座り、ゆったりと時間を過ごしていた。食事の後は長椅子でのんびりとするというのが、ここ最近の定番である。
 ローグは本を読んでいた。
 自分は本を読むことを苦手だ。そんな相棒の知見を広げようと、記載されている内容を読み解いてくれている。
 真導士として派遣される実習では、知見の狭さが弱みともなる。ようやくローグも十点溜まったので、読んでいる本の内容を教えて欲しいとお願いした。そうしたら、権利など使わなくてもと笑いつつ快諾してくれた。
 今日の本は、いつもより格段に古めかしい装丁をしている。彼は持つと重そうな本を膝に置き、右手で頁をめくり、左手を自分に拘束されながら黙々と読み進めていた。
「……難しそうな本ですね」
「歴史書だからな。近頃は使わないような難い言い回しが多い」
 視線を文字から離さず答える彼に、寂しさが募る。
 娘達の視線を集め続けている端整な顔立ち。その横顔を眺めながら、一人悶々としていた。読書中は彼の表情から喜怒哀楽のすべてが消える。どこか知らない人みたいで落ち着かない。
 自分のために読み進めてくれている。けれど、ついつい横槍を入れてしまう。
「面白いですか」
「ああ、文化の流れが理解できるから。地域によって風俗が違う理由とか、独特の癖とかがわかって面白い。でもな、詳しい歴史書を探すのは大変なんだ。大戦中にほとんどが焼かれてしまったらしくて、いまも穴が空いている部分が多い」
 また知らない話が、彼の口から飛び出てきた。気になって、いつまでも自分を見ない黒の瞳に問い掛ける。
「戦で、本が焼かれてしまったのですか?」
 やっと文字から視線が剥がれ、黒の瞳が、自分を見てくれた。
 その拍子に、穏やかな黒の中にいる自分とも目が合って、願いが叶ったというのに今度は恥ずかしくて辛くなる。
「真術が身近だったせいだ。歴史書に限らず文芸書や俗書、絵本にすら真術について書かれていた。大戦が激化した原因は、誰でも真術が使えたからだと言われてる。大戦が終結し、真導士の里ができた時に、各国が協定を結んで焚書をした。結構な量の本が焼かれたから、聖都周辺の町からも焚書の炎が見えたと記録が残っている」
 耳にやさしい低い声を聞きながら。彼の瞳に自分への想いが映っているのを確かめる。
 想いを貰ってからもう一月も経つ。
 いつか消えてしまうのではと思っていた心の炎は、あの日と変わらぬ明るさで、黒の中に閉じ込められている自分を照らしていた。拘束していた左手に力が加わり、頁をめくっていた右手がさらに重ねられる。
「寂しいのは治まったか」
 さぼっていた理性が羞恥を取り戻す。頬が熱くなってきてしまった。恥ずかしさを味わいながらも、触れている手だけは離せない。少しだけ顔を俯かせて、首を振って気持ちを示した。
 隣から低い笑いがこぼれた。自分が拘束していたはずの手が肩にまわり、彼の方へ引き寄せられていく。

「困りました」
「何が」
「絶対に、悪化しています……」
「そのようだな」

 慣れた手つきで添え髪をいじりはじめたローグは、愉快そうにくつくつと笑い出した。
「何とかしてやりたいのだが、力不足で申し訳ないことだ」
 申し訳ないと言うわりには声が楽しそうで、言葉をそのまま信じることができない。
「本当にそう思っていますか……」
「確認するか?」
 彼の右手に支えられて互いの額を合わせる。こつりと当たった彼の額は、いつも通り高い体温を持っていた。

 真導士が持つ第三の視界――"真眼"。
 額の中心に開かれている、まばゆい白の輝き。真導士は真眼を通してのみ、真力を世界に放つことができる。
 真力は人それぞれに特徴があり、ローグの場合は熱い海の気配をしている。自分の気配は、自身で確認することができない。彼が言うには、涼しげな風の気配をしているらしい。
 ずいぶんと彼の気配を追うのも慣れてきた。
 不完全ではあるけれど、真力の気配から感情を読み取れるようになりつつある。
 いまの彼が抱いている感情。それは幸福とか喜びとしか言いようがない気配で。思った通りうれしがっているではないかと、少しだけ拗ねることになった。

 でも、彼の気持ちを考えればそれは致し方ないこと。
 長々と待たせてしまっている負い目もある。拗ねた気分は早々に引っ込め、開かれた真力の海に飛び込んでいく。
 ローグの膨大な真力を示している、終わりがない海。気配に触れているだけで、あたたかい水の中をたゆたっているような安心感が生まれる。頼ってばかりではいけないと思いながらも。この気配に包まれた時の安堵を知ってしまった自分は、今日もあたたかな世界で甘え続けている。
 このままではいけない。甘えてばかりの怠け者では、ローグに相応しくなるなど無理だろう。一歩ずつでも前に進めればと希望を抱いていても。この果てしない真力を感じるたびに、自分への疑心が出てきてしまう。

 本当に叶うのだろうか?

 彼の上に行くことなど絶対にできはしないし、横に並ぶこともかなり困難だとしか思えない。
 でもせめて。せめて彼の後ろを一緒に行くくらいは。
「こら。また不安になるようなことを考えているな」
 少し固くなった声音が、思考の流れを断ち切った。考えが読まれてしまったようだ。額を触れ合わせている時は、どうしたって誤魔化しが利かない。諦めて、正直な気持ちを話すことにした。
「……わたし、まだまだ相応しくなれそうにもありません」
 自分とは違い過ぎるローグ。あまりに重ならない自分達のすべて。
 考えた分だけ。胸の奥の寂しさが膨らむ。それでも届かない距離を埋めたくて、白のローブを強く握った。

 強くなりたい。彼の力になりたい。
 ローグの傍に立って、共に歩いて行けるような人間に――。

 思いを伝えれば、穏やかだった熱い海が少し波立ってきた。
「傍にいてくれるだけでいい。俺達は対等だろう、そんな言い方はやめてくれ」
 抱いていた手が緩められて、肩をゆっくり撫ぜてくる。
 ここでやさしくされたら駄目になると、急いで額を引き離し。黒の瞳と向かい合う。
「ローグはそうでも、わたしは納得できません。相棒の力になりたいと思うのはいけませんか」
 離れたことが不服そうな黒の眼差しに、思いの丈をぶつけてみる。

 異論、反論は、短くひと息に。

 そうでないと彼の知識と手管に巻かれて、いまの場所で安住されられてしまう。
 頼られることに拘りがある相棒は、自分が我を張って四苦八苦することをよく思っていない。互いの希望がすれ違ってしまって、折り合いがつかないところも悩みの種だ。
「そう思ってくれるのはうれしい。ただ、苦しめたいとは思わない。サキは自分を卑下し過ぎている」
 ローグの右手が頬を撫でてきた。
 どうも彼はこの仕草を好んでいるようで……。
 恥ずかしさで抵抗を試みていた時期もあったが、流れに流されて日常的な行為となってしまった。里に来る前の自分であったら、決してそれを受け入れなかっただろうに。
 慣れというものは実に恐ろしい。村長が知ったら、はしたない娘になってしまったと嘆かれてしまいそうだ。
「我が相棒殿は、本当に頑固だな。焦らなくていいと言っているのに」
 ローグはそう言って、あの笑顔を浮かべた。
 ああ、何てずるい人なのだろう。
 時間差で攻撃をしてきたらしい相棒。その手管に、呆気なくぐるぐると巻かれる。甘やかされるのに慣れていない自分にとって、どうにも強過ぎる誘惑だ。おかげ様で、駄目だ駄目だと叫びを上げている心の声が、どんどん遠くなっていく。

「とても苦しくて、もう潰れてしまいそうです……」
 肥大化を止めない寂しさは、心の平穏を保てないところまできていた。
 急くなと言われてもそれは難しい。気力を整えられなくなれば再び追放の危機に陥ってしまう。はがゆくて、白のローブに顔を埋めて擦りつけた。
 この気持ちをどう伝えればいいのか。彼がくれた想いをどう返せばいいのか。
 脆弱な自分は今日もまた、同じ場所で足踏みをしている。
 そして足踏みをしている間も、寂しさが容赦なく陣地を広げている。
「……こんなに傍に居て、寂しいと思うのは変ですよね。前まではそんなこと思いもしなかったのに」
「何だ、昔からだと思っていた。村に近しい人間がいなかったと聞いたから」
 低い声が近くで響く。
 頬を撫でていた手は、手持無沙汰になったのか今度は頭を撫ではじめた。甘やかしに屈服した自分は、ぬくもりを感じながらゆるゆると首を振る。
「村では寂しいなんて思っていませんでした。独りでいるのが当たり前で。それが普通だったので、悩んだことなんてなかったのです。こんなこと初めてで、どうしていいかわかりません」
 本心をさらけ出して次の甘い言葉を待ち受ける。いつの間にか、自分もずるい人間になってしまっていた。

「……なあサキ、ずっと考えていたんだが。それは本当に寂しいのか?」
 期待とは違う、真面目な声音と言葉が届く。夢から覚醒し、いきおいよく顔を上げた。
「話を聞いてると、少し違うのではないかと感じられる。俺の勘は鈍いから、はっきりとは言えないけれど……。本当は、違う感情なのではと思えてならない」

(違う……?)

 会ったその日から抱いていた寂しさ。これは本当の"寂しさ"ではないと言うのか。
 導かれるまま、記憶の糸を辿ってみる。この二月、幾度となく自分を苦しめ、悩ませていた感情。
 最初は、どうだったろうか。
 森の中で一緒に真円を探して。……そう、ローグと喧嘩をしてしまったのだった。いまとなれば、喧嘩の原因は単なる誤解だと笑えるけれど。あの時は必死だった。口を聞いてくれなったローグを追いかけて、真円を探して……それから。
 それから、自分は何を考えていただろう。時間の流れに埋もれはじめている朧な記憶を、絶え間なく辿っていく。
 確か、きっかけが欲しかったはずだ。
 真円を見つければもう一度。喧嘩する前のように話ができると思っていた。
 寂しいから話がしたいと思って……。いや、違う? 話がしたいと思ったから寂しいのではないかと……。
 よく、思い出せない。
 日記でもつけておけばよかった。文字を書く練習を怠るからこんなことになる。

 頭にかかった霧を掃おうと。小さく拳を作り、額をごしごしと擦ってみる。それでも上手く思い出せずに、同じ仕草を繰り返していたらローグに止められた。そして、擦り過ぎてひりひりしてきている額に、一つ口付けを落とされた。
「こんな風に悩ませようと思ったわけではない。……上手く言えなくて、もどかしい」
 彼はそう言って。再び額に、そして頬にと口付けていき。最後に視線を絡ませてきた。
 瞳の中にある種火が、徐々に燃え盛る力を強めている。背中に回されていた腕に、ぎゅっと追い詰められ。彼の熱に囚われる。自分を見つめながら頬を撫でていた手が、するりと顎の下まで落ちていった。わずかに迷ったその手が、顔を上向きにさせるよう動く。
 予感がして身体を竦めて……力を抜き、目を閉じた。彼の呼吸が、ぴたりと止まった。
 自分はずるい。そしてローグもずるい。
 だったら、もうこのまま――。

 唐突に、扉を叩く音が鳴り響いた。
 二人してびくりとなる。瞼を上げて視界を取り戻せば、ありえないくらい近くにローグを発見した。声にならない悲鳴を上げながら、両腕を精一杯伸ばして彼から逃れ、露骨なくらいの距離を取る。
 動いた拍子に本が落ちた。落ちてしまった本を拾い上げたローグが、やや調子の外れた声で扉に向かって応答した。すると外から、いつもより不機嫌そうなヤクスの声が聞こえてきた。
 脇机に本を置き、急いで扉を開けに行くローグを横目に。あたふたと添え髪を手櫛で梳いて、乱れを直す。
 扉が開く音がした。心地いい風と共に、長身の友人が居間に入ってくる。
「……おう」
「あ、ああ」
 めずらしく表情が薄いヤクスを見て、ローグが少し怯んだように思えた。
 胸の心音が聞こえませんようにと願いつつ、そっと様子を窺っていれば、視線を流してきたヤクスと目が合った。そしてにっこりと微笑まれ、意味深な言葉を投げかけられる。
「やあ、サキちゃん。ちょっと用事があるからお邪魔させてもらうよ。……大丈夫だったかな?」
 もちろんですと返事をして立ち上がり、ぎくしゃくと足を進めた。
 お茶を淹れに行こうと思い、二人に背を向けた途端。変に鈍い音とローグの何かに詰まった声が聞こえてきた。しかし、とても確かめる気はおきず。相棒を見捨てて、自分だけ炊事場に駆け込むことにした。

 わたわたとお茶が淹れ、二人が待つ食卓へ運ぶ。
 長身の友人は、ありがとうと言ってカップを受け取り、のんびりとした声で用事を切り出した。
「明日さ、実習らしいんだわ。それを伝えに来た」
 ヤクスの家は学舎の門からほど近い。庭掃除をしていたところ、たまたまキクリ正師に声を掛けられたらしい。
「ひどいよなー。ローグ達の家は遠くて行きづらいから伝えておいてくれだって。"転送の陣"でも使えばいいのに」
「明日、ヤクスさんも一緒なのですか?」
「そ。ちなみにジェダスとティピアちゃんも。いやー、知っている奴ばっかで助かったよ。オレ実習はじめてだからさ、緊張しちゃってヘマやらかしそうで。いま相棒も居ないから、一人だと自信ないんだ」
「相棒は、明日来ないのか」
「不幸があったから実家に帰省してる。ひい爺様が亡くなったんだそうな」
「そうか残念だな。お前の相棒なら会っておきたいが。なかなか機会に恵まれない」
「オレも二人には会わせてみたいんだけど、どうも女神の気紛れが続いているな。また今度紹介するよ。……ということで、夕食ご一緒させてもらえないかな。一人だと味気ないから混ぜて欲しいんだ」
 ヤクスはそう言って、朗らかに笑う。それにしぶい顔をしたローグが口を開く。
「勝手に決めるなと、いつもあれほど……」
 ヤクスが少しだけ動いた後、食卓の下から不穏な気配がしてきた。
 途端、ローグの表情が弱くなる。
「さっき決めたんだ。女神から天啓が下ったみたいでね」
 にこにこと言うヤクスと、またも怯んだローグを見比べて。鋭敏な真眼を閉じておくべきだったと悔いた。
 今日、ローグは窓掛けを下ろしていなかった。
 長椅子からは、家に続く道が見えるようになっている。それはつまり、道を歩いてきたヤクスからも――。

 考えただけで頭が煮沸してきた。
 支度をしないとと、もごもご言いながら席を立ち。一人、炊事場で籠城を決め込むことにした。

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