蒼天のかけら 第五章 邂逅の歯車
最後の歯車
フィオラが去った後の甲板は、最悪と呼んでいい雰囲気となった。
あの後すぐに、セルゲイは張り切った様子で船内に戻っていった。いまの内に拠点で仮眠をしようという心づもりらしい。
問題の高士がいる拠点には、誰も戻る気がなかった。
甲板に座り込み。組み分け表を握り締め。動けなくなった九人の導士達を、ぬるい海風が撫でていく。
「冗談じゃねえぞ」
クルトを皮切りに、それぞれが不満を大気に吐き出す。
「何ですかね、この組み分けは。あの男と一緒になど組ませるわけにはいきません」
「そうだね、とても賛成はできない。だがどうしたものかな……」
男達の憤りはかなりのものだ。
セルゲイのあり様は、彼らの怒りを誘うには十分過ぎる力を持っていた。彼らは相棒と友を案じ、回避策を模索している。
「いっそ、お嬢さん方には全員で急病になってもらうとかね」
口調は軽やかだが、ヤクスの目は笑っていない。
紫紺の瞳がこのような色を放つところなど、見たことがなかった。
「……沈めるか?」
実行に移してしまいそうな猛々しい気配が、強く吐き出された。
荒ぶる真力と共に放出された低い声は、ひたすらに黒く深い。ローグの危険な発言を、いつもであれば止めるであろう長身の友人は。声につられて、ただ笑っている。
彼らの横では、泣き出してしまったティピアをアナベルが抱き締め、慰めている。小さな後輩を包み込んでいる彼女にも、不審の色が見え隠れしていた。
「アナベル高士。例えば導士が実習を放棄した場合、どのような処罰があるかご存知でしょうか」
真導士でなければ気づかないだろう静かな怒りが、紫の瞳に宿っている。
「謹慎かしらね……。追放には至らないと思うわ」
彼女の回答を受けて、男達は心を決めたようだった。
「……しばらくゆっくりするのも悪くはないね」
不敵な忍び笑いが、甲板の上を流れていく。
ひりひりとするような憤りの気配を感じながら、海を眺めた。
青く青くどこまでも広がる海原の先。晴れ渡った空との境界に、それが存在している。
淀んだ気配は確実に近づいてきていた。
正しく言えば、船が突き進んでいるのだと言える。真力と気力を乱れさせた導士達を、淀みながら待ち受けている暗雲。
よくない雲、よくない航路、頼れない高士達と、まだあまりにも弱い自分達。
状況を把握しながらも、それらを回避する気が起きないのはどういうことだろう。自分は、女神の試練を甘んじて受け入れようというのか。
(違う……)
左手首に嵌めていた銀の腕輪を外して、すべてを視る――。
運命とも宿命とも呼ばれる自分達の未来を、噛み合って廻していく大きな力を感じていた。
回避できない力。
それをしては未来を進むことができないと、教わるまでもなく知っていた。
向かうしかない、この先に。
誰も降りることを許されない流れに、身を委ねる意外の道はない。
淀んだ雲の合間。海と空の境界から。明らかな感情を持った光が飛んでくるのが視え、銀の腕輪を手首に戻した。
(どうか、女神の加護があらんことを――)
「……皆さん、立ってください」
全員が自分を見た。疑問の視線の中にたった一つだけ、確信を持った視線が混ざっていた。
「何が来る」
低い声が問うたと同時に、輝く金が立ち上がった様子だけ目の端に映った。
「害意です……」
熱い真力が、甲板の上に満ちていく。
「サキちゃん……?」
「ヤクス立て。サキの読みは絶対に当たる。座っていると怪我をするぞ」
前回の実習で同じだった四人は、早々に立ち上がって構えた。ヤクスと幼馴染の番は、戸惑いながらも立ち上がり。自分が見つめている方向へと身体を向ける。
全員が立ち上がると、アナベルが船全体を囲う"守護の陣"を展開させた。自分が読んでいる気配など、捉えてもいないだろう彼女は。まるで本能に突き動かされているかの如く、守りの膜を編み上げた。
展開された気配を察知したのか。船内に向かう唯一の扉が、慌ただしく開かれる。
「おい、アナベル。何を勝手なことをしているのだ!」
尖った声の叱責に、応える者はいなかった。
「来た……!」
自分の声を合図に、ローグとイクサが真円を描く。真円が描かれたと同じ時、害意からも真術の気配が漏れてくる。
どうやら燠火の真導士による攻撃の気配を、害意が察知したらしい。
「放て!」
放たれた"旋風の陣"。日に照らされた穏やかな波間を、白い風が乱していく。海上にあらわれた二本の竜巻は、白く輝きながら害意を飲み込もうと勢力を広げていった。
巻き込まれて飛ばされた害意の合間を縫って、炎の雨が甲板に降り注いでくる。
"守護の陣"に弾かれ。海へと散っていく炎の子供達からも、薄い害意が感じ取れた。白の応酬に巻かれながら、真眼を見開いて世界を探る。
足りない。まだ足りていない――。
攻撃を受けてなお、耳鳴りはそこまで高く響いていない。
いつもならば頭痛を引き起こすほど、喚き立てるというのに。静けさが、本能にさらなる危機を訴え続けている。
転送の気配が、唐突に甲板へと降ってきた。
熟練の高士達が、真術の気配を察知して外に出てきたのだ。
「船を守れ」
緑の真導士から発せられた短い指令を受け、導士達が応答する。
白の光が目の前で輝き。その光が収束した時にはもう、二人の姿はどこにもなかった。
これで船の真導士全員が甲板に集まっている。役者は揃ったはずだ。
だというのに"足りない"と感じる。
大いなる力を廻す部品が足りない。そして害意の強さも数も欠けている。
事態は、まだ納まらない。
船から距離を空けた場所に、大きな岩の塊が生まれた。
造り上げられた真術の岩場に。真導士のローブが二つ、強く輝いている。船を囲んでいた害意達が、岩場を目がけて飛び去っていく姿を確認した。古ぼけた灰の外套を羽織っている集団の中に、白が一つも咲いていなかった。
正規の真導士ではなく。それでいて真術を展開できる存在――片生の魔導士だ。
少ない真力を有し。まともに真円すら描けない彼ら。それなのに風と炎の真術を、同時に展開している。不可思議な現象。真実を探ろうとしても、数が多過ぎるため自分一人では追いきれない。
周囲から害意が消え。余裕ができたところで、ローグがアナベルに指示を仰いだ。
「加勢するべきですか」
視線の先には真術の岩場。光が花火のように炸裂している。その場所に向かって、何か手を打つべきなのか。自分達ではまだ判断ができない。
「船を守ります」
語尾を震わせながらも、アナベルが言い切った。
指示を守ることを優先した彼女。しかし彼女の相棒が、その意志を打ち砕くべく声を上げた。
「何を言うか、この臆病者め! お二人に加勢をして、賊を撃ち落とすのが先だ」
功を狙った強欲な罵りを、相棒に叩きつける愚かな男。この状況においてもまだ、何の真術も展開していないセルゲイ。男の言葉を、緊急事態に拝聴する者がいるはずもない。
「駄目よ!」
泣き叫びのような否認を受けて、男の顔が醜く変形した。
アナベルの叫びに融け込み、すっかりと隠れていた音が。一拍遅れて耳に舞い込んできた。
追い込まれた自分は、甲板を見渡して安全な場所を探す。
白の膜に守護されている甲板でも、間に合わないと直感が告げている。
襲撃中も船は、暗雲に向かって突き進んでいる。船と淀んだ雲の間にある岩場を見た。その視線を本能が勝手に動かした。岩場の手前に意識が張りついた。
海の中に……影がある。
「船を止めてください!」
甲板で争っている新米高士達に向かって、大声で叫ぶ。叫びを迸らせ。しかし、間に合わないことは理解していた。
導かれるまま、黒髪の相棒を振り返る。彼の姿を認めてから、無我夢中でその足元に"守護の陣"を展開した。自分を包み込んだ白の膜に彼は驚き、大きく眼を見開く。彼の驚愕を見て、すかさず大きく息を吸い込む。
切なる思いを発しようとしたまさにその時。海の中から出現した巨大な害意に、口を塞がれる。
船の包み込んでいた"守護の陣"を越え。塩水を含んだ横殴りの旋風が、甲板の上にある白の花を薙ぎ倒し、潰していく。
風の中、自分の名を叫ぶ相棒の声が聞こえた。
船を海の中に沈めてしまおうとする害意の風は、上方から情け容赦なく甲板にぶつかってくる。
白く輝く風に慈悲は存在していない。
"暴走"しているかのような旋風が、終わることなく吹き荒れ。弱く小さな命の灯を、握り潰そうと手を伸ばしてきた。
(足りない……)
失った"守護の陣"を、いま一度展開しようと真円を描いたアナベルの気配。
(まだ、来ていない……)
風に対抗しようとしながら、自分と相棒の身をかばっている導士の姿。
(もう少し、あと……少し……)
白の暴風の中、自分を探して呼ぶ彼の声。
転送の気配が届いた。熟練の番が船に帰還したことを知り、瞼を上げる。
風に潰され。倒れ込んでいた甲板の上、ごろりと仰向けに寝転んだ。害意の旋風を押し戻す、ジーノの真術に触れながら空を見る。青々と懐かしく広がる天空の世界。
鋭敏な勘が、吹き荒れる旋風と同じ位の強さを持つ、新たな害意を察知した。
フィオラとジーノが、二人掛りで消し飛ばそうと対抗している風。その害意の風と、まったく同じ気配の存在を把握した自分は、青に導かれるまま力を抜く。
膨れ上がり海を割って誕生した新たな害意。叫喚の巷と化した甲板の上で、薄らと微笑んだ。
青い空から降ってくる白の花。
未来を紡ぐために必要だった最後の歯車が、いま降臨した。
極大の白が解き放たれる。
誕生した害意も。削られながら生き残っていた害意の命も。あっさりと摘んで世界から抹消する力。
(これで、揃った――)