蒼天のかけら  第五章  邂逅の歯車


甘いご褒美


 港に朝がやってきた。
 停泊した船内で朝まで過ごした自分達九人は。眠い目を擦りながら、港まで迎えにきたムイ正師と再会した。

「皆さん大活躍だったそうですね。本当にお疲れ様でした」
 よく通る艶やかな声音が懐かしい。
 波乱に満ち満ちた実習は、ムイ正師の一言でとうとう終わりを迎えたのだった。

 里への連絡と担当高士の交代は、すでにバトが報告していたようだ。
 港に降り立った時点で、四人の高士の姿はどこにもなく。挨拶もしないままの別れとなってしまった。
 他の三人はどうでもいいけれど、アナベルとだけは挨拶がしたかったのに。ちょっとだけ寂しくなってしまう。
「バト高士。導士達が大変お世話になりました」
「いや……。それよりも例の確約を」
「ええ、大丈夫です。彼らの口は、私がきっちり閉ざしておきますから」
 ムイ正師の美しい笑顔に、導士全員が背を正した。バトも怖いがムイ正師も怖い。
 里に帰ってからしゃべろうなどとは、誰一人思っていなかった。
「慧師へのご報告はいかがなさいます」
「俺から直接上げる。これから別件があるので、失礼する……」
 それだけ言って、足早に歩き去ろうとするバトの背中を引き止めた。
「バトさん」
 小走りで追いつき、背中の後ろでぴたりと止まる。
「ありがとうございました」
 自分の一言をきっかけに、背後から礼の言葉が紡がれた。
 しばらくの沈黙の後、盛大な溜息を吐いたバトは半身だけ振り向かせ。そしてこう言った。
「まったく、理解しがたい奴らだ……」
 どこかで聞いたバトの言葉に、笑いがこぼれてしまう。
 フードを深く被り、影が落ちた表情の奥から。幻の光を湛えた静かな青銀が、自分を見ていた。
 突然、バトの手が伸びてきて頭に乗っかった。加えられた重みで、少しだけ顔の位置が下がる。
 これは……?
「首輪を外すなよ、サキ」
 ほんのわずかな時間だけ、幻の光を消した青銀が自分を見つめていた。
 澄み切った色に、目を惹かれ。つい判断が遅れてしまった。意味を理解し抗議で吠えようとしたのに、またもや転送で姿を消されてしまう。

 バトは。
 あの人はあまりにも逃げ足が早過ぎる。

 今度会ったら盛大に吠え盛ってやる。年頃の娘を犬扱いしたことを、絶対に後悔させなければ。
 反撃の誓いを胸に刻みながら振り返れば、口を開けた同期の面々が自分をじっと見ていた。何だ、何ごとだと思って呆けている彼らの顔を見渡し、一点で時を止める。
 怒りの熱も高く、嵐が来たかのような高波の気配が、周囲に撒き散らされている。怒りの気配をまとった黒髪の相棒は、あまりにも深く黒い笑いを浮かべながら、消えたバトを睨みつけていた。
 たらたらと汗が流れ出る。怒りに圧され、奇妙な恰好のまま動くことができない。
 ムイ正師は、不可思議な状態で固まっている九人の導士達を見ていながらも。それでは帰りますよと、問答無用で転送を開始した。
 やや強引な彼女の導きにより、自分達はついに――穏やかな真導士の里に帰還したのであった。



 くたくたな状態で辿りついた我が家。
 扉を開ければ、小さな獣がとても必死な様子で胸に飛び込んできた。
 かわいいジュジュと入れ替わるように、気配を鎮めようともしない黒髪の相棒が、ずかずかと居間に入り込んだ。
 激怒中のローグは、そのまま長椅子の上に転がった。背もたれの方を向いて横になるのは、彼が怒っている時にするお決まりの姿勢だ。
 ジュジュは一通り甘えてから、ふとローグの怒りを感じ取ったようだ。主を見捨てて自室に戻って行ってしまった。
 自分の安全を優先した白い獣。見捨てるなんてひどいではないかと、小さく拗ねた気分になる。

 とにかく、長椅子に転がる巨大ないじけ虫を何とかせねばと思案する。そして、足取りも軽く炊事場に駆け込んだ。
 困った時の頼みの綱。
 いじけ虫の大好物である白い果実を、冷水で洗ってから皿に盛り、長椅子のところまで持っていった。
「ローグ」
 呼び掛けてみるが返事はない。
 これはかなり怒っている。困ったものだ。
「ローグ、リズベリー食べないのですか」
 肩がぴくりとゆれた。もうひと押しだと勢いをつけて誘惑の力を強める。
 彼の頭の方にある脇机に、リズベリーの皿をそっと置く。甘い匂いでの誘惑を試みたが、これは我慢ができてしまったらしい。
 なかなか根性があるいじけ虫だ。
「食べないなら、わたしが全部食べてしまいますよ」
 そう言って一つだけ白の果実を手に取り、皮ごとぱくりと食べる。リズベリーは皮もおいしくいただける。
 口の中に広がる、とろけるような甘味。つかの間、作戦を忘れてうっとりとする。
 野苺と同じ大きさのリズベリーは、食べやすくてついつい手が伸びてしまう。一緒に持ってきた小皿に、食べ終えたリズベリーの種を入れた。種を出された音で、またも肩がぴくりとなったが振り返る様子はない。
 これは本当に困った……。
 かなりへそを曲げてしまっているようだ。打つ手をなくし、情けない声でもう一度呼び掛けてみる。
「一緒に食べると約束したではないですか」
 最後の作戦だ。約束は必ず守るという信条に、訴え掛けてみることにした。
 これは効果があったらしい。
 いじけ虫がついに言葉を発してくれた。

「……どういう知り合いだ」
 やはり誤解をされているようだ。青銀の真導士も迂闊なことをしてくれた。
 本人は飼い犬の世話だと思っているかもしれないけれど、周りから見たら誤解されるに十分なことなのだ。
 帽子で隠して、ローブで保護されているとはいえ。髪がある場所への接触は控えてもらわないと。
 誤解を解くのは簡単。でも、確約に触れてしまう。しかも里に戻ってきた時点で、すべて忘れることになっている。悩ましいところだがサガノトスの真導士である以上、話すわけにはいかない。
「里に戻ってきています。お願いだから聞かないでください」
 この発言は気に入らなかったらしい。いじけ虫は背を向けたまま、少しだけ身体を丸めて転がり続けている。
 いつまでも振り返ってくれない白い背中を見つめていたら。胸の奥の寂しさの振りをした例の感情が、大きくなってきてしまった。

 早く名前を呼んでくれと。早く外に出してくれと急かす感情を、持て余して苦心する。

「ねえ、ローグ。帰ったら話したいことがあると言いましたよね。わたしの話を聞いてはくれないのですか?」
 自分だって恥ずかしい。
 けれど真っ直ぐに気持ちを伝えてくれたローグに対して、ちゃんと真っ直ぐに向き合いたい。
「……聞く。話してくれ」
 何と。背中を向けたまま聞くつもりなのか。それはちょっと……どうなのだろうか。
「こちらを見てはくれないのですか」
 返事はない。ちょっとだけむっとする。
 人が一大決心をして、向き合おうとしているのに。さすがにひどいのではと思える。
「本当にいいのですか」
「……いい」
 ならばこのまま伝えよう。後になってもう一度と言っても、そのような願いなど聞いてはあげない。
 もう決めてしまった。

 深呼吸を一つする。

「ずっとずっと"寂しい"と思っていました」
 肩がゆれた。
「ローグに違うのではないかと言われて、わたしなりに考えていたのですが……。確かに"寂しい"わけではなかったようです」
 いじけ虫が転がって、こちらを向いた。
 いまさら振り向かれても……。本当はとても恥ずかしいので、あちらを向いていてもらってもよかったのに。
「悪化するはずです。治療法が間違っていましたから」
 黒の瞳の中で、自分が微笑んでいる。
「わかったのか」
 長椅子の上に座りなおした彼の前。膝立ちのままの姿勢で相対する。
 右手が頬に伸びてくる。やさしく撫でてくれる手は、いつも通り高い熱を帯びている。
「はい。ローグがいるから"寂しい"わけでも、ローグがいないから"寂しい"わけでもありませんでした」
 強い眼差しを正面から受け止めて、ローグの瞳を見つめる。
 真っ直ぐな黒い瞳。自分の大切な相棒を象徴する――鮮やかな色。
「わたし、貴方が"恋しい"」
 大きく開かれた黒の奥で、心の炎が大きくゆらめいている。
「ローグが"恋しい"」
 意志を持って彼に触れる。自分の右手を彼の頬に当てて、ぬくもりを感じた。
「貴方が……好きです」
 驚いた顔で固まってしまったローグは、目を少し見開いたままで問う。
「確かめてもいいか」
 信じられないといった表情に、微笑みを返し。
 目を閉じて、そっと真眼を開いた。
 背中に腕が回り、抱き締められる。そうしてからゆっくりと額を合わせ、互いの気配を辿っていく。
 ローグの気配は大変な様相になっていた。嵐がきたのか竜巻が起きたのかと、心配してしまうほど波が忙しなく蠢いている。
 思わず頬が緩んでしまう。
 真力を整えるのは大変だろう。実習の後にして正解だった。
 自分を抱き締めて。ひたすらに気配を追っていたローグから、笑いがこぼれた。

「確認できましたか」
「ああ……」

 彼はとてもうれしそうな返事をして、額を離した。
 瞼を上げたら、満面の笑みを浮かべたローグがそこにいた。照れ臭くて堪らない。でも、うれしそうな彼の笑顔を見ていたくて、目を逸らさないよう努力をする。
 触れ合っていた真眼に、口付けが一つ降ってきた。
「ずいぶんと、大きく実ったものだ……」
 さらに頬に口付けて、真剣な顔になって自分を見つめてきた。
 背中に回していた右手を頬に滑り込ませ。口付けたばかりの場所に熱を送り込んでくる。
 高鳴っていく鼓動と、恋心で胸が苦しい。
 呼吸が途切れてしまいそうな圧迫感に、眩暈がしてきてしまう。
「サキ。触れてもいいか」
 とても断定的な問い掛け。
 もう触れているのではと、とぼけることもできる。しかしそれは、まったく意味がない。
「……聞かないでください」
 視界に膜を下ろした。
 衣擦れの音と共に、彼の右手がするりと喉元に滑っていき。

 熱が唇に触れる。

 想いをあらわしたようなぬくもりに眩暈を覚えて、身体の力を抜いた。
 一度離れた熱が、足りないと言わんばかりに、またきつく重ねられる。唇が触れ合う熱に浮かされ。自分を支えていた軸が熔かされてしまった。
 幸福感に支配された自分は、ローグのぬくもりに溺れようと腕の中に沈んでいく。胸元に頭を埋めて、恋しい人の顔を見上げた。

「甘いな」

 思った通りだと言いながら、熱い親指が唇をなぞる。
 とうとう羞恥に完敗してしまい、白のローブに顔を隠して動けなくなった。
 甘いのは先ほど果実を食べたせいなのに。
 しかしその事実もまた恥ずかしく。ぴたりと動きを止めたまま、彼の腕の中で長いこと隠れて潜んだ。
 気がついた時には、白い果実はすっかり平らげられて一つも姿を残していなかった。

 その日の夕食が、聖都ダール風になったのは言うまでもないだろう。

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