蒼天のかけら  第六章  倉皇の迷宮


心の迷宮


 走って、走って――。
 ぽっかりと樹木が途切れた場所に出て、足を止めた。

 息は上がっていた。両足も痛みを訴えている。でも、まだ走る力を残していた。
 足を止めたのは、そんな理由ではなかった。
 自分が息を飲んだのと、眼前に並んでいる人物達が息を飲んだのは、まったく同じ瞬間であった。

「誰……?」
 ティピアが聞く。名前は知らない。知らなかったから首を振った。
 しかし、会ったことはあるのだ。名は聞いていないけれど、顔はしっかり覚えていた。
 忘れようとしても、忘れられなかった。
「"三の鐘の部"の人達だよ」
 呼吸の合間に、元気をなくした声が言う。
 そうか……。彼らは"三の鐘の部"に移動したのだった。あの事件の後、熱に浮かされながら聞いた記憶が残っている。
 胃がぎゅっと押されたように思った。
 油断すれば悲鳴が口から出てしまいそうだ。こんな時にと焦りながら、右手で口元を抑えた。
 後ろからはエドガー達が追ってきている。居場所を晒すような真似はできない。

 並んで座っていた輪から、一人の男が立ち上がる。
 男が動いたことで、記憶の奥で眠っていた嫌悪感が這い出てきた。ローブの襟元をきつく抑えながら、後退する。
 服をかばい、身を守る仕草。その動作を見た男の顔に……悲壮が塗られた。
「サキ、どうしたの?」
 自分の様子に気づいたティピアが、顔を覗き込んできた。固まった自分の視界の中、ユーリが男達に近づいていく。
「わたし達、エドガーに追われてるの。できれば匿って欲しいんだけ――」
「ユーリ、駄目!」
 自分から放たれた強い制止に驚いて、ユーリが目を見開いた格好で固まった。
「行きましょう。早く、早く逃げないと……!」
 桃と紅水晶の瞳が、不思議そうに自分を見つめている。何も知らない友人達を守るべく、後退しながら言葉を重ねる。
「林を通って、道に……」
「サキちゃん、もう無理だよ。エドガー達がきてるから、林に戻るのは危ないって。お願いして助けてもらおう。この人達は全員燠火だし、ギャスパルの子分でもない。話せばわかってくれるよ」
 ね? と微笑むユーリに、伝える言葉が見当たらない。
 この男達が燠火であることは知っている。自分は、彼らが描いた真円を間近で見ていたのだ。あの時と同じ、樹木に囲まれた場所。思い出したくない過去が、木々のざわめきと、湿った土の匂いに誘われて帰ってくる。

 ――引きずられて連れて行かれた森道と、濁った黒と、紫炎の記憶。

 棒立ちとなっている男の背後で、残る三人も立ち上がった。眼前の光景に膝が震える。
「あの、あんた……」
 最初に立ちあがった男が、何かを話し出そうとした。それだけで我慢をしていた悲鳴が口からあふれてしまった。わずかばかりに残された理性が右手を動かし、無駄な音の出口を強引に塞ぐ。
 自分が上げた叫びを受け、口を開いていた男が悲壮の上に悲壮を塗って――力なく項垂れた。
 後方にいる三人もそれぞれ肩を落とし。内の一人は、自分から視線を逸らして、地面を睨みつけている。
 自分と男達の間で、困惑しながら状況を把握しようとしていたユーリ。そんな彼女が林の方を見て、さっと顔色を変えた。
 後方から土を踏みしめて近づく音。
「手間をかけさせないでください。意味のないことは嫌いだと、言ったはずです」
 劫火の輝尚石を掲げた状態のまま、エドガー達が現れた。細い目でゆっくりと場を見渡し、おやと声を上げる。
 四人の男達に、完全に気を取られていた。
 足元に描かれた蠱惑の真円に、身体の自由を奪われ。一瞬で地に落とされた。
 首と足と手に、鉄の枷が嵌められたのだ。枷は地面から伸びた鎖に繋がっている。首が締まって顔を上げるのも不可能だ。必死でもがいていれば、二人の娘からも悲鳴が上がった。
 絶望が視野を灰に染めていく。
「これは、面白い組み合わせですね」
「エドガーか。お前、何をしているんだ……?」
 男達とエドガーは互いを見知っている。焦燥に煽られながら、じゃらりとまとわりついてくる鎖を引っ張った。蠱惑の真導士だとしても、導士では実物を展開するための経験が足りない。だから、これはきっと幻だ。
 念じ、意識を高めて鎖の消失を狙う。
 しかし、幻であるとわかっているのに、鎖も枷も消え失せることがない。触れている鉄の冷たさと、重み。じゃらじゃらと金臭い匂いを出し、擦れる鉄の音が、幻と信じるには鮮明過ぎた。
「ローグレストの相棒に用事がありまして。貴方達、ローグレストに手酷くやられたそうですね。ちょっと手伝ってもらえると助かるのですが、どうですか?」
 エドガーの声に、焦りが積み重なっていく。

 早く、早く、早く――!

「居心地が悪い、だから辛気臭い場所で隠れている。"三の鐘の部"でも、貴方達の凶行を知っている者がいますから。後ろ指をさされて、さぞかし辛いでしょうね」
 凶行という言葉に、ティピアが反応を示した。
 自分と同じようにもがき、幻を解こうと言霊を出す。だが、ティピアの言霊でも真術は弾けない。ティピアの真力は三つ目まであるはず。それで弾けないなら、エドガーの真力も高いのだろう。
「でも、手伝ってもらえるのなら、お礼に仲間に入れて差し上げます。ギャスパルは細かいことを問いませんからね。いい加減、肩身が狭い思いをするのも飽き飽きでしょう。……自ら進んでギャスパルに下る証明として、その三人を僕のところへ連れてきてもらえますか」
 取れない。解けない。どうしよう。どうしたらいいの。
 頭の中で巡る言葉。ああ、捕まってしまった。喰らわれてしまう。飲み込まれてしまう!
 エドガーの話を聞いた男達が、大地に張り付けられている自分達の方へと、歩いてくる気配がした。
「やだ……、嫌だ。ローグ……助けてローグ!」
 恐惶に満たされた心が、翼を呼ぶ。恋しい半身の名前を呼び、その姿を求めた。
「これでしたか。ああ、確かに真力が低いですね。都合が良いことです。御しやすい方が手間取らなくていいですから」
 淡々と紡がれる台詞を聞いていたら、腕を掴まれて引き起こされた。遮るものがなくなった口から、高い声が逃げ出していく。腕をつかむ力によって忌まわしい記憶が、無遠慮に掘り出され、そのまま眼前に置かれた。
「そう、それでいい」
 金属質な声が、結構なことだと喜び。こちらへ引き渡せと腕を伸ばした。
 引き起こされた身体が、どんっと押されて、またもや大地に倒れ込む。
 土に触れた三つの衝撃音。思わず目を開いた。
 押されて倒れた先は……エドガーとは反対側。視界にエドガーと相対している四つの白を収める。

「もうたくさんだ……!」
 悲哀としか言いようがない男の声。
「これ以上、恥を重ねる真似……誰がするかよ!」
 乾燥した笑みを浮かべているエドガーが、差し出していた腕を下ろした。
「ギャスパルに逆らいますか。リーガとかいう、小者にすら逆らえなかった貴方達が?」
 リーガという名に、四つの背中が震える。
 鋭敏な真眼が、四つの気配を正確に捉えた。そうか、この人達はこういう気配をしていたのか……。何て悲しい色をしているのだろう。以前会った時の気配とは、似ているところが見当たらない。
「逆らうも従うもない! 全部やめだ。お前ら皆して、おかしいんじゃないか!?」
 でも……と、金属質な声が言う。
「怖いでしょう。誰かに従っていた方が楽なのでしょう」
 不安だろうと、エドガーが笑う。
「強い者の下につくのはいやですか? 本当はそうしたいのでしょう。自分は何も決めなくてもいい。そして、誰に恨まれることもない。だって、命令されていただけなのですから、仕方ない。敵わない相手には従うものです。強い者の下についていれば、責任を取らなくてもいいのに。何を迷うのですか」
 無慈悲な笑顔だった。
 そこに、同期達が持つ迷いの真実を見てしまった。
「弱い者は組み敷けばいい。下がいると楽ですものね。自分より矮小で愚かな者がいれば、自分だけは虐げられない。全部その者が請け負ってくれるのです。下に組み敷く者がいれば、貴方達は普通でいられます。誰かに侮蔑されるなど、嫌なものです。肩代わりを求めて何が悪いのでしょう」
 こめかみが痛む。
 痛みと共に、世界を覆っていた靄が、すぅっと晴れていくように視えた。
「せっかく救いを差し伸べたのに……。虐げられ。底辺を這いずっているのが、そんなに楽しいのですか」
「うるさい。……うるさい、黙れ!」
 男達が真円を描いた。
 攻撃の意思を昇らせた四人より一拍早く、劫火の輝尚石が煌きを帯びた。それを視て、咄嗟に"守護の陣"を展開した。

 視界の中、赤と白がぶつかり合う。

 真眼に重圧がかかった。炎の真術の驚異的な力に押されて、頭痛すらしてきた。
 力の差は歴然だ。輝尚石に籠められている劫火の真術は強大で。とても、自分では対抗できない。
 明滅する白が割れる直前。新たに、二つの守護が展開される。
「ユーリ、ティピア!」
 友人達が、真術の膜を世界に生み出した。
 二人の守護が防いでいる間にと、守護を収束させてから展開し直す。三つの真術に守られた世界へ、炎豪は届いてこなかった。
 これなら、いける。
 そう思い。友を励まそうと焼ける大気を吸い込んで――後ろの気配に気づいた。
 エドガーの後ろにいたはずの男が、自分達の後ろに一人で回り込み。真円を描いて構えている。

(しまった……!)

 間に合わないと覚悟した矢先。間近で旋風が展開された。
 先ほど地面を睨んでいた男が、自分の横で腕を上げている。この人が真術を展開したらしい。
「逃げたいんだろ……」
 自分の方を見ないまま、静かに問う。
 掠れた声にも悔恨が含まれていた。人の悲しい声に安堵するなど、自分は少しおかしいのかもしれない。
「近くにいるのか」
「あ……、誰がでしょう?」
 間が空いて、男の血色が悪くなった。
「……ロ、ローグレスト」
 悔恨に恐怖が上塗りされた。
 そう言えば、ローグは全員の骨を折ったのだった。カルデス商人の逆鱗に触れた男達は、制裁の痛みを知っている。
「います。真術を展開していれば、こちらに来ると思うのですが」
 ごくんと、喉が何かを飲み込むように動いた。
「逃がす。絶対に逃がすから……」
 自分への言葉だろうか。どうも場にいない誰かに対して、しゃべっているように思えた。
 記憶の傷跡に触れてみる。かつて血を流していた場所は、かさぶたで覆われているらしい。消えてはいないが、強く痛むほどでもないようだ。
「お願い――します」
 琥珀に力を込めて言い切った。

 後だ。
 悲しむのも。悔むのも。真実を問うのも……全部終わってから。

 真眼を見開き、白の世界を見据えて立つ。
 初夏の風が激しく吹きつけて、薄い金糸が宙で踊る。祝福の息吹を思わせるそれに、ただ薄く笑顔を浮かべた。

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