蒼天のかけら 第七章 旋廻の地
夢の託宣
奇妙な夢を見ていた。
じっとりと汗ばんだ夜着を緩めて風を誘う。日に日に暑さが強まる大気に辟易としている。
緩めた夜着の襟元に首飾りが引っかかり、じゃらじゃらと音を立てた。
先日、実家からの荷物に入っていた首飾り。母が作った守りの首飾り。真導士ではない母が作ったものだ。故郷に伝わる迷信だけを頼った代物。だが、いまの己には術具よりも確かな安堵を与えてくれていた。
歳を取ってから産まれた自分に対する愛情は深い。父が死んでからというもの、ますます深さを増してきている。
やさしい母。苦痛を抱えた自身よりもたった一人の息子ばかりを案じ、女神に祈る母。
病気がちな母の世話は、隣人に頼んできていた。
昔から親しくしている仲だ。里から出た給金も送っていることだし、母が不自由することはないだろう。
寝苦しい夜。
最近は特に眠りが浅い。暗く沈んだ影を抱えたまま、開けていた窓をさらに大きく開いた。
開いた窓から、ぬるい夜風と白い大気が部屋に入り込む。
(霧……)
サガノトスは霧がよく出る。からっとした大気の故郷とは違う、真導士の里。
赤黒い色石でできた首飾りを撫でた。
故郷を、母を脳裏に浮かべる。
この間まで一生を過ごしていくと思っていた故郷が、こんなにも遠のいてしまった。
故郷の人々も、病弱な母も、真導士となったことを女神からの恵みだと喜んでくれた。
しかし――。
伝説の真導士の里は、何とも辛気臭い場所だった。
少なくとも、いまの己にはそうとしか思えない。
人々の顔が暗い。誰もが敵意を醜くむき出しにしている。
近頃は流血沙汰すら起こっている。平和な故郷とは似ても似つかない醜悪な場所。居心地がいいわけがない。
しかも己にはもう一つ大きな不幸があった。だからいまも里の導士に馴染めていない。何一つ悪い事などしていないのに、何故こんなことに巻き込まれなければならなかったのか。
やり場のない怒りは、夜を越えるたびに強くなっている。
窓越しに、霧を孕んだ夜を刺し睨む。
繰り返し見る奇妙な夢に、酷似している灰色の夜。
狂いかけているのだろうか?
そうか、それもいいかもしれない。箍を外してしまえば、些細なことに悩まなくて済みそうだ。
里の大気と同じく。醜悪に染まった顔を作ろうとしたところで、視界に紅が舞った。
(何だ……?)
まだ夢を見ていたのだろうか。繰り返し見る夢の中に出て来る、奥へ奥へと誘う紅の光。
霧の中、ゆらりゆらりと舞う紅は、楽しげに遊んでいるようにも見える。
(夢ではない……)
夢かと思ったが、確かに覚醒している感覚をつかんだ。これが夢ではないならば、あの紅はいったい何なのか。
足に力を入れて、寝床から這い出した。窓枠を越えて遊び舞う紅の光を追う。
ちかりと強く光った紅は、目の前で姿を変えた。
艶やかに笑う、赤い髪の美しい女……。
「パルシュナ様――」
女神だ。
女神が降臨したのだ。そうとしか思えない。それほどまでに美しい姿だった。
ゆるく霧に舞う赤い髪は、女神が己に背を向けた拍子に、金の光をこぼしていった。
「お待ちを!」
風もまとわず宙を泳ぎ去っていく女神を、夢中で追いかけた。
同じだ。
夢とまったく同じだ。
霧を泳ぐ赤い髪。
白い肢体には薄い絹。白と赤の奇跡の後を、夢と同じように駆けて追う。
木々を抜け、草原を走り、そうこの先には苔むした岩が転がる場所がある。記憶を掘り起こしていれば、寸分違わぬ光景に出くわし。さらに確信を深めていく。
あれは……。
繰り返し、繰り返し見ていた奇妙な夢は、これを示していたのだ。苔にまみれた古い遺跡。草に囲まれて、姿を埋没させている石の入口に到達する。
上がった息を整える。
神聖な場所に辿りついたのだ。身の内のすべてを整えて、一歩足を踏み入れた。星の光が届かない場所であるというのに、石造りの回廊も、張りついている蔦も、はっきりと目に映すことができる。
女神が、こちらを見て微笑んでいてくださる。
小さな
(さあ、こちらへ)
「……おお」
辿りついた先で、感嘆の声が漏れた。
夢と同じ場所。神聖な場に相応しい、複雑に描かれた文様で装飾された、円形の小部屋。
部屋の中心には金の台に置かれ。まばゆく輝いている一冊の本が乗っていた。
(愛し子よ。貴方に力を授けましょう)
誘われるまま、部屋の中心にある本を手にした。年月を感じさせる革の表紙は、変色している個所がある。
表紙を開き、最初の頁をめくっただけで、本のすべてを理解することができた。
頭に、膨大な知識が書きこまれていく。
(どうか、この地に広がる暗闇を晴らし、清浄なる世界を取り戻してください)
やはり女神は見ていてくださった。そして大いなる決断をされたのだ。
サガノトスに広がる邪悪を憂いた女神は、意志を託せる者を探していたのだろう。
そう、まさしく女神に選ばれたのだ。
「お任せください、慈愛深き母よ。……必ず、必ずこのサガノトスを、貴女の望む清浄な地としてみせましょう」
女神は微笑み、頼みましたよと声を残して大気に消えた。誓いの言葉を信じ、すべてを託せたと満足して去っていったのだ。
目を閉じ、祈りを捧げ、再び世界に戻った時、金の台に奇跡が残されていた。
九つの、金に輝く仮面。
台に置かれている仮面の中。もっとも派手で、大きく角を生やした仮面を手に取り、女神の御心を確かめる。
「……仲間を集めよと、そうおっしゃるのですね」
仲間を集めて、大いなる意志を達成しなければならない。
彼女を意志を受け入れる証として、手にした仮面を顔に重ねた。重ねた途端、あふれ出て来た力にはっとなる。
地の底から漲ってくる膨大な力。
ああ、いままで何に怯えていたというのだろうか。
この身にはこれほどまでの力が眠っていたのだ。女神に与えられた大いなる恵みが、密やかに眠っていたのだ。
女神はそれを気づかせようと、夢で真実を告げてくださっていた。
「この力さえあれば……」
仲間を集め、彼女の意志を全うすることができるであろう。
邪悪を掃う力を復活させる。聖なる大地を守護するために封印されていた力。
そのためには――。
「血を……」
聖地の奥にある祭壇に捧げるのだ。真力を内に秘めた、うら若き娘の血を。
思い描くは一人の娘。
薄い金の髪と琥珀の瞳をした、天水の真導士。
あの娘こそ、己を苦しめる境遇を作りだした張本人。母なる女神の使徒であるこの身を、暗い場所に追い詰めた娘。
きっとあの娘は、邪悪なる意志の運び手に違いない。
「女神よ、……あの娘なのでしょう?」
捧げられるべき、生贄は――。