蒼天のかけら 第七章 旋廻の地
疑惑の年
一番高い棚にあるそれを手にした。
途端に舞い上がる無数の埃。梯子を支えていた下の二人が、盛大に咳き込んでいる。
「すごい、埃っすね……」
げほげほと咳き込みながら愚痴をこぼした方に、手にした本を渡した。
「……埃を掃っておけ」
言えば、張り切った声が二つ返る。
(――妙なことになったものだ)
声を聞きながら胸中だけで呟く。
悪くはない。悪くはないが、周囲からの理解は得づらい関係だと言えた。
「ローグレストさん。これを全部一人で読む気っすか?」
梯子を下りはじめた自分に、疑問が投げかけられる。何をいまさらと思い、手にした本の埃を掃っている男を見る。
「当たり前だ。何のために本を借りていると思っている」
答えれば、あまりにも率直な羨望の眼差しを向けられた。
「はあ……、本当に何でもできる人っすね」
尊敬。
一言で済ませるならば、何よりも適切な表現だろう。奥の台で他の書物を取りまとめている二人からも、同種の視線が投げかけられる。
苦ではないけれど、むず痒くてしょうがない。
サガノトスにある図書館の一角には、自分以外に四人の導士がいる。
ダリオ。エリク。ブラウン。フォル。
四人揃って燠火の真導士であり、自分と同期の導士達であり、かつては禍根を残していた間柄だった。
和解という表現は、決して正しくはないだろう。
しかし。敵対の意志は、すでにお互い持ち合わせていない。
リーガという名の、追放された真導士に付き従っていた四人は。いまやすっかり心を入れ替えて好青年と化している。
当時、見せていた表情はどこへやら。
純朴そうな顔を見せる四人と、いまさら敵対しても……と諦めたというのが実情だ。
ギャスパル達の襲撃から、数日経ったある日。四人が自分とヤクスを訪ねてきた。
本当は、もう一度くらいは殴ってやろうと構えていた。こいつらがした行いは、絶対に許せはしないと、そう思っていたからだ。
誰よりも大切で、何よりも大事な彼女に、醜い男の欲をぶつけようとしたという事実。
いくら殴っても気が済むことなどないと、本気で考えていたものだ。顔を見て拳を固め。歯を食いしばれと、啖呵を切ってやろうとした。
そうしたら泣きながら許しを乞われて、さすがに拍子抜けしてしまった。
うだうだと繰り返される謝罪。許しを求める言葉。いっそ湖に沈めてくれて構わないとまで言い切るほど、悔恨に満ちた苦悩。最終的には怒っているのが馬鹿馬鹿しくなった。直接の被害者であったヤクスですら、呆れ切って口を開けていたくらいだ。
リーガの共鳴から抜け出した四人は、罪の大きさに潰れかけていた。
こいつらの元の性格は、自らが犯した凶状に耐えられるようなものではなかったらしい。
馬鹿馬鹿しさを抱えながらも、彼女に内容を伝え。許すか許さないかと問うてみたところ、彼女の答えも自分達と同じものであった。
(命を投げ出されても困ります。わたしの方が苦しくなってしまいそうです……)
小首を傾げながら。言葉通りに困り顔となったサキは、しばし悩んでこのような結論を出した。
(まだ、怖い気持ちはあるので会いたいとは思いませんが、進んで憎みたいとも思いません。あの人達がそのようにしたいと言うのなら、それでいいのではないでしょうか)
彼女の言葉をそのまま伝えたところ、感謝と感激に満ち満ちた四人は、絶対に彼女の信頼を裏切らないと約束をした。
それ以降、実に献身的に働いてくれている。
四人が望んだ罰の形は、他の人間から見たら珍妙なものだろう。しかし、人出が足りなかったので、結果としてこれでよかったのか……? と、半ば強引に自分を納得させたのだ。
「ローグレストさん、今日はこれくらいにしておきますか?」
四人揃って同じような金髪と碧眼のため。最初は名前が覚えられなかったが、どうにか判別がつくようにはなった。
いまの発言はダリオ。
こいつは真っ先に覚えられた。右耳に黒い耳飾りをしている。エリクは額飾りが特徴的だ。何重にも重ねられた銀の鎖がやたらと目立つ。ブラウンは、髪を長く伸ばしている。そしてフォルは喉元に入れ墨をしている。不気味に見える模様は、故郷では一般的な成人の証なのだと言っていた。
「そうだな。とりあえずはこれで終わりにしておくか」
本を読むことは好きなのだが、調べ物をするとなれば時間を食う。
読み進めるにも順序立ててやらねば、成果は上がらない。これ以上、本を持ち帰っても整理しきれないだろう。
「いったい何を調べてるんですか」
まとめた書物の題を眺めていたフォルが、よくわからないといった表情のまま聞いてきた。
「真術書とかはわかるんですけど……」
言いながら手にしているのは一冊の名簿。サガノトスに所属する高士達の名が連ねられているものだ。
難しい顔をして、フォルと同じように悩んでいるブラウンの手には。『夢と予言』という題の書物が握られている。
「……色々な。俺にも事情があるんだ」
答えづらい内容であったので、半端に言葉を濁した。
ただ面倒だったという部分もあったというのに、四人はやけに真剣な顔を作った。
「ローグレストさんがそこまで言うなら、余程の内容なんですね……」
そして何やら勝手に人を持ちあげてくる。
まあ、尊敬されている分には損はないか。多少の痒さを我慢しながらも、含んだ表情だけは崩さぬよう努力をした。
こいつらの中で自分は、海のように広い心で四人の罪を許した寛大な男、という位置に落ち着いているらしい。
ちなみにサキはもっと大げさで。母なる女神の如く、慈愛とやさしさに満ちた娘という形に納まっている。
自分は痒いくらいで我慢できる。だが、控え目な彼女にとっては相当な重荷であったらしく、その誤解だけは早々に解いて欲しいと哀願された。四人に彼女の願いを伝えてみたものの、謙虚で清楚という印象を加えただけで、何の効果も得られなかった。力不足で申し訳ないことではある。ただ、これ以上悪化させるよりはいいかと、熱が冷めるまで放置……という対策を取っているところだ。
「俺はもう少し調べていきたいことがある。それを家まで運んでおいてくれ。いつも言っているから、もうわかっているだろうが、家の前に置いておくだけでいいからな。……絶対に、サキと顔を合わせるなよ」
あえて、飛び切り低い声を出す。
「わかっています。サキさんを不快にさせるような真似は、絶対にしませんから」
情けなく眉を下げたダリオは、必ずと請け負った。
ぼろ雑巾になるまで、使い込んで欲しいと望んだ四人は、意気揚々と書物を運び出していく。
奴等の姿を見送ってから、目的の場所へと身を移す。
サガノトスの図書館は広い。蔵書量も尋常ではない。下手をすると王都の図書館よりも、本があるのではと思ってしまうほどだ。世では貴重品とされている本を、ここまで揃えていることには単純に感動を覚えていた。
――だが。
目的の場所で足を止める。
視線の先には、飴色になった革の背表紙が、棚の中で整然と並んでいる。右手側から数えて十三番目の場所に、一つだけ飴色の背表紙ではなく、木の板が差し込まれていた。
(やはりな)
今日もない。図書館の貸し出し期限は十日のはず。毎日毎日、足繁く通っているというのに、そこには同じ木の板が差し込まれている。おかしいと思いながらも念のため日を数えていた。しかし、今日ですべてがはっきりとした。
貸出中を意味する木の板の上を、指でゆっくりとなぞってみれば、蓄積された埃が指にこびりついた。
十日経っても存在を見ない名簿。
ちょうど十二年前、里に在籍していた導士名を記してあるだろうそれは、どんなに待ってもここには返ってはこない。
最初はそこまで深く考えた行動ではなかった。
単純に、彼女と繋がりがあるらしい高士について、調べようとしただけだった。自分でも情けないと思っている感情から、端を発した好奇心は、かなりの大物を釣り上げてくれたようだ。
―― 十二年前。
サガノトスに関する事項は、結局その年にぶち当たる構図となっている。
自然と失われるほど過去ではない。焚書が起こった大戦以前ならともかく、たかだか十数年前の話。
焚書の影響で、本に希少性がついてからというもの。数多くの文献が大事に保管されてきた。
大事なはずの文献と歴史の証明が、唐突に消されている。ドルトラント王国全体を記す文献も、聖都ダールの詳細を記す文献にも変わりはない。十二年前の記録は、十三年前と変わらぬ調子で刻まれていた。
不可解な歴史の削除は、十二年前の"第三の地 サガノトス"だけで起こっている。
(まったくもって、きな臭い)
指についた埃を息で飛ばして、出口に向かう。
広々とした館内に、自分の足音だけが響いて流れる。図書館の利用者は多い。しかし、大半は真術書を閲覧している。
歴史書や歴史資料が並んでいる場所で、歩きまわる人影は自分だけだった。
誰ともすれ違わないまま、出口を抜ける。
開放されている大きな扉をくぐった時。普段は興味なさそうに、手元の本に集中している司書から、鋭い視線を向けられたようだった。
きっと、気のせいではないだろう。
予感を覚えながらも、決して振り返らず図書館を後にした。