蒼天のかけら  第七章  旋廻の地


夢の追跡者


 駆ける。

 駆けて、駆けて、追手から逃れる。
 背後からまた一つ、悲鳴が生まれた。助けを呼ぶ声を耳に入れながら、前へ前へと逃れて走る。

 助けたい。

 助けられない。

 涙が流れた。でも後ろを振り返ることはしなかった。
 右足を踏み出した大地に、風を切って飛んできた矢が突き刺さる。
 危ない!
 あと少しで射られるところだった。
 一面に轟く鬨の声。囲まれてしまっただろうか。逃げ切れないんだろうか。もう……、もう……どこにも。

(いたぞ!)

 狩る者の声。
 いっそう強く大地を蹴った時、上から何かがざっと音を立てて降ってきた。衝撃で地に落とされる。
 全身を覆う黒い網。もがくたび絡みがひどくなるそれに、絶望を味わう。

(捕まえた、捕まえた!)

 歓喜の声につられ、面を上げた。闇の中に浮かぶ笑顔と相対する。
 仮面。
 にこやかな笑顔を形作った、金色の不気味な仮面の奥から、残忍な眼差しがこちらを見――。

「……ああ!」
 自分の叫びで覚醒する。
 目を開いた。そう、自分はいま目を開いたばかりだ。視界には木目の天井。家の……、自室の天井が広がっている。
 窓からは夏のまぶしい日差しが照り込んでいた。日の光に満ちた、明るい世界。
 闇はない。
(夢……)
 激しく自分を痛めつけている心音。激しさのあまり、寝ながら眩暈を起こしそうになる。
 口を大きく開いて、大気を精一杯取り込んでいく。くらくらと廻る視界に邪魔をされながらも、少しずつ身の内が整っていく感覚を得た。
(また、違う夢……)
 右手で口元を覆う。
 乾燥しきってかさついた唇に触れて、水を飲もうと思い立つ。時間をかけて身体を起こす。腕が痺れているようで上手く力が入らない。
 寝床の脇机には水差しとグラスが置かれている。グラスを左手に持ち、水差しを持って傾けてみた。ちょろりと出て来た水。どうやらそこまでの残量はなかったようだ。
 これだけではとても足りない。炊事場まで水を取りに行こうと、寝床から抜け出して床に足を置き。ぐっと足に力を入れる。
 ……よし、立てそうだ。
 今朝はこれが上手くいかず、床に転がってしまったのだ。
 物音を聞きつけたローグに、しとやかとは言えない格好を見られて恥ずかしい思いをした。どうせ倒れるなら、貴族の姫君のようにふらっと横座りになればいいのに。何で顔から落ちたのだろう。
 ううむと悩みながら、打ちつけた記憶のある額を撫でた。 そろりと足を進める。頭がくらくらしてどうにも不安定だった。

 困った。
 本当に、困った。

 こんなに眠っているのに、まだまだ寝足りない。炊事場まで行って、水を汲んで帰ってくる。たったそれだけの時間なのに、起きていられないかもと不安になる。
 あと少し。もうちょっとだけ起きていたい。
 喉がからからだった。眠り続けているので食事もまともにしていない。だというのに空腹は感じずにいた。
 乾きさえ癒せば大丈夫そうだ。
 居間まで何とか辿りつく。真眼は開くなと言われている。そのせいで気配が視えない。もしも開けていたとしても、眠気のせいでまともに視えるか心配だけれど。少なくとも人の気配がしないことは確かだった。
 彼はまだ外出しているらしい。皆のところに行っているのだろう。
 炊事場の入口で視界がぶれた。入口を形作っている柱に手を掛けて、自分の身体を支える。水を求めて彷徨う意識が、強引に眠りの世界へと戻されていく。
 たった一口だけでいい。水が飲みたいのに、何でそれすらできないのだろう。
 ローグが帰ったら、流水の輝尚石を籠めてもらおう。そうすれば炊事場まで歩かなくて済む。本当なら流水の輝尚石は、自分自身で籠められる。
 でも、この状態ではとても無理だ。真円がきちんと描けない。
「……ぅ」
 視界に鈍い幕が下りた。……ああ、駄目だ。持ちそうにもない。
 膝を床につけ、炊事場の入口にもたれかかる。ここで眠ったら、また心配させてしまう。せめて寝床に戻りたい。
 それなのに、どうしても瞼が意思から外れる。
 うとうとと落ちかけた時、扉の外から声が聞こえてきた。

「開けてくれ」

 低い声。
 彼が帰ってきてくれた。濁った意識でそれだけを思った。
「いるんだろう。両手が塞がってるんだ。扉を開いてくれないか」
 頭を上げた。
 両手が塞がっている? また、たくさんの書物を借りてきたのだろうか。
 彼に呼ばれれば応えたくなる。冷えた床で涼んでいた足を叱咤して、ふらふらと揺れながら立ち上がった。
「……いま、開けます」
 何も考えていなかった。真眼も閉じていた。
 濁った意識と鈍い思考では、それを捉えられなかったのだ。
「おかえりなさ――」
 居間の扉に手を掛けてから、湖面のように静かな黒い瞳を想像して微笑んだ。
 そして自分は立ち竦む。
 眼前には輝く金。
 夏の日差しに照らされて、ぎらぎらと輝く金が家の前に並んでいる。
 微笑みかけた自分に向かって返されたいくつもの笑顔。金で成っている不吉な笑顔が五。金の奥からこちらを見ている視線が十。そんな光景が広がっていた。

 夢が、追いかけてきた。
 自分を捕え切れなかった夢が、この世界にやってきたのだと思えた。
 首筋にぴたりと冷たい物が当てられる。
 銀の刃が視界の端で、きらきらと光っていた。
 何で耳鳴りがしないのだろう? 鈍い思考の中で、ゆっくりと疑問が流れていく。
 仮面から、動くなと音が出てきた。
 金の下で反響しているのか。声が幾重にも積まれているように聞こえて、本来の声質が読み取れなかった。
 自分に刃物を当てている金は、導士のローブを羽織っている。他の金の姿と見ようとして、首がちくりと痛んだ。
「動くなと言っている」
 再び声を発した金。背後にいた四つの金がぞろぞろと居間に入り込んで、自分の背後に回っていく。
 耳鳴りがやってきた。
 思考と同じように、危機の察知も鈍くなってしまっているようだ。
 遅過ぎる警告に、困ったことだと重ねて思う。両腕が後ろに回され、手首を括られていく。
 口にも布が巻かれた。後頭部で布を縛る気配がした。ぼんやりとすべてを受け入れている中で、首にぬくい何かが伝っていった。
 金を見る。仮面の奥にいる導士の気配を追ってみようかと考えた。
 しかし、考えたところで記憶が終わってしまった。
 我慢をしていた瞼がすとんと落ちたので、その後のことは何も覚えていられなかったのだ。

 眠りに戻る直前、痛んだばかりの傷に、銀が深く食い込んだように感じた。
 ただ、それだけだった。

Next  >>


Back  |  NovelTop  |  SiteTop
inserted by FC2 system