蒼天のかけら  第七章  旋廻の地


黒の影


「二人とも、手首を先に癒してくれ!」
 口を引き結んだティピアと、結局ついて来たユーリに向かってヤクスが言った。
 癒しを待てぬと、手首の傷にはすでに止血が施されている。
 見る見る間に鮮血で濡れそぼった手布。深々と切り裂かれた右腕は、力なくだらりと下げられていた。
 苦しげな顔の相棒は、意識を失っている。
 白い頬には涙の跡がいくつも流れていて、痛々しさを浮き彫りにさせていた。
「サキっ……、サキ!」

 何でだ、どうしてサキなんだ!!

 いつもいつも。
 何故、彼女ばかりがこのような目に合うのか。行き場のない思いは、身の内に駆け廻り続けている。まるで身体の内側から焼かれているようだ。
 撫でた頬からは体温が消えていた。
 身体をあたためるべく腕を伸ばして、彼女を痛めつけている矢にほんのわずか触れてしまった。細い肩を突き抜けている矢の存在が心底憎たらしい。如何ともしがたい衝動が唐突に湧いてきた。
 衝動にまかせて奴等を睨み据える。
 仮面を引きはがされた導士達の顔。どれもこれも学舎で見かけた顔だった。
 内の一人と視線が絡む。
 目を合わせただけで、怯えたように後ずさる男の姿。その姿が醜く、憎しみと怒りが止まらない。
 ――よくも。
 よくも俺のサキをこのような目に合わせてくれた。
 後ずさった男の下に真円を描く。頭の中で、何者かがそれを唆している。

 これだけのことをしたのだ、覚悟くらいはできているだろう。
 痛みを。
 愚かな者どもに制裁を。
 彼女の受けた苦痛を、同じように味わわせてやればいい。

「ローグ!」
 怒りを乗り越えて、ヤクスの声が耳に入ってきた。濁った思考の中で、意識を強く引かれる。
 見やれば色を濃くした紫紺が、真っ直ぐに飛んできていた。
「構っている場合か、治療が先だろ! ……手を貸せ。矢を引き抜く」
 ヤクスの発言に、ジェダスが驚きの声を上げた。
「ここでですか? 不衛生な場所より、家に戻ってからがいいのでは……」
 ジェダスの言葉を遮って、迷いのない答えが示された。
「ここでだ。出血が多過ぎる。戻ってからじゃ手遅れになりかねない。とにかく傷を塞がないと、サキちゃんが持たないよ」
 強烈な宣言に、身の内にある衝動が大きく育った。

「誰か、手布を。――ローグ、そいつをサキちゃんに噛ませてくれ」
「何をする気だ」
「矢を抜くって言っただろ。矢尻を折って引き抜く。麻酔はないから、舌を噛ませないようにさせる」
 息を飲んだ。
 これ以上の苦痛を与えたくはない。理屈はわかるが感情がどうしても追いつかない。
 躊躇いを覚えたのは、自分だけではなかったらしい。クルトからもどかしそうな問いが出される。
「他にやりようはねえのか……」
「ないよ」
 感傷を切って捨てたヤクスは、サキの姿勢を変えさせるべく腕を伸ばしてきた。
 本能だけでかばおうとして、紫紺の瞳とぶつかる。
「まさか、見殺しにする気か?」
 違う。
 傷つけたくない。彼女を守りたいだけだ。
 ただそれだけなのに、何で上手くいかないのか。
「頼む……」
 諦めとともに願いを託す。
 冷たい鏡の床に、彼女をそっと下ろした。申し訳なさで胸が詰まって堪らなかった。

 色を失くした口に、ティピアから借り受けた手布を当てる。
 抑えろと言われ、鬱屈した気分を持ちつつも彼女の身体を固定する。すると意識がないはずのサキから呻きが漏れた。
 奥歯を噛みしめて衝動に耐える。
 ヤクスはごめんなと声をかけ。一度だけ自分と目を合わせてから、まずは矢尻を折った。
 振動が苦痛を運んでしまったらしい。サキの身体が跳ね、涙が再び流れて落ちる。
 ……とても見ていられない。
 傷を広げないよう、真っ直ぐに引き抜かれた矢。彼女を貫いていた矢には血が沁みついていた。
 視界の端で、ティピアが目を瞑ったのが見える。
 クルトの背中に隠れているユーリからも、泣き声が漏れていた。
 傷口を慎重に確認したヤクスは、そんな娘二人に癒しをと指示を出す。それぞれに動揺しつつも彼女達が真術を展開する。
 奇跡の光と評される白を見つめながら放心をした。

 俺がこんな風でどうする。

 自身で叱咤してみるが、上手い具合に効果が出ない。
 自分の怪我にも。他人の怪我にも、ここまでの動揺を覚えた記憶がなかった。家族が大怪我した時だって、このような気分にはならなかった。だから勝手に、自分はそういうものに強いのだと思い込んでいた。
 本当は違ったのか。ここにきて初めて思い知った。

 肩に手が乗せられる。……ジェダスだ。
 落ち着けと言いたいのだろう。
 無理を言うなと抗議したい。この光景を見て……傷つけられたサキを見て、どうして落ち着ける。
 浅く激しい呼吸をしている彼女。いまだ恋しい蜜色は開かれない。
「どうだ」
 大丈夫だと、その一言を欲してヤクスに問う。
 しかし、願いに反して沈黙だけが返ってくる。紫紺の瞳が彼女の傷口を、手を、首を確認しながら厳しい色を深くしている。
「これは……」
 どくりと心臓が鳴る。
 嫌な予感ばかりが、大きく大きく育っていっている。
 首の脈をとっているヤクスの眉間が、険しさを増した。いつになく荒い手つきで、サキの両手に触れて何事かを確かめ、はっとしたように目を見開いた。
 彼女の手を離し、先ほど自身でへし折った矢尻を手にし、顔に近づける。
 匂いを嗅ぐ仕草をして、結論に達したらしいヤクスは、倒れながらも弓を片手に持っている一人の導士に視線をやった。
 嫌な予感への答えは、意外なところからもたらされた。

「毒よ!」

 全員がいっせいにそちらを向いた。
 仮面達に抑え込まれていたイクサの相棒が、続けて言う。
「きっと矢に毒が塗られている。あいつが効果を確かめていたわ!」
 指さされた先には、角の仮面を被っていた一人の男。
 貧相と言っていい男が口元を歪めて笑ったのを見て。身の内に燻ぶっていた負の感情が、生き物のように蠢いた。

「これをっ」
 浄化の輝尚石を、いち早く取り出したのはダリオだった。ヤクスは手に渡った輝尚石をすぐさま展開し、彼女に光を注ぐ。
 苦しげな表情のまま、浅い息をしている彼女。
 矢を抜くため、横向きにされていた身体を、今度は仰向けにする。
 肺が楽になったのか、少しだけ大きく息を吸うのがわかった。わずかでも苦痛を逸らそうと姿勢を整えてやり、腕の中に招き入れる。
 冷え切った身体と、あまりに薄くなっている清涼な気配。
 夢中で額を合わせた。
 人前での配慮など微塵も抱かなかった。
 開かれている彼女の真眼に直接触れても、気配が薄くてひどく遠い。いつもならば、さらさらとゆるく流れている涼しげな風も。消せないはずの不安の渦すらも。感じるのが困難なほどに小さくなっている。

 手を離してはいけなかった。
 絶対に、彼女を奪われてはいけなかったというのに。
 誰にも言えないままになっているあの感情が、喉元までせり上がってきた。
 歯を食いしばり、衝動に耐え続ける。

 真眼を見開き、自分の真力を大きく解放した。
 鏡でできた床に振動が走る。どこかでひび割れる音がしたが、誰も振り返ろうとはしなかった。

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