蒼天のかけら 第七章 旋廻の地
赤黒い
「一人になっちまったな。もういい加減に降参したらどうだ?」
構えを解いたクルトが、実にだるそうな声を出した。
勝敗は決した。
結果は見えているだろうと、言外に伝えている。
「チャド、目を覚ませよ。術具の罠に嵌っているんだ。お前はこんなことするような奴じゃないだろう?」
燠火の一人が心配そうにしている。
喉元の入れ墨で勘違いしていたけれど、意外とやさしい人であるらしい。
「何を馬鹿な……。そのような世迷い言に騙されると思っているのか」
四人の男達から溜息が漏れた。
「説得はできなさそうですね。これは本体を叩くのがもっとも効率的に思いますが、皆さんどうでしょう?」
全員が同意した。
ローグと四人の燠火が、仮面に向かって腕を掲げる。
耳鳴りが……高くなる。
状況に合わない警告に違和感を覚え、少しの間だけ奇妙な心地に陥った。
もう、大丈夫なはずだ。角の仮面は心を操るだけで、攻撃を仕掛けるような力は持っていない。
ぴしと、床がから音がした。
音に気を引かれて、サ視線だけを床にやる。
生贄の間に敷き詰められていた鏡は、戦闘の余波を受けて。見る影もないほどひび割れ、ぼろぼろになっている。
たくさんの命を見取った鏡が、その役目を終えようとしているのだろう。
炎豪が視界を赤く彩った。
不気味な仮面が、笑顔のままどろりと溶けて落ちていく。
半分まで溶けた時、糸が切れた人形のようにチャドが崩れ落ちた。操る力を失ったのだろうか。
手に持っていた本も、床の上で燃えている。
これで終わり……。
ユーリから盛大に吐息が漏れた。
結末を見届けて、気を緩めたのだ。友人に笑いかけようと顔を向け、壁際でへたり込んだ状態のディアと目が合う。
戦闘中も動きがなかった彼女は、どうも腰を抜かしてしまっているらしい。
二人して自らの足で立てなくなっている光景がまた情けない。自分と目を合わせたディアは、気まずそうな顔を少しだけ作って、ぷいっと横を向いた。
何だ……。
怖い思いをしたから、少しは殊勝になってくれたのではと期待していたのに。
そこまで自分勝手で理不尽な怒りに捕らわれていたいというなら、絶対に止めてなんかあげない。思い出したむかつきと共に、自分もぷいっと横を向いた。
しっかりとその光景を見ていたヤクスが、困ったように笑う。
ゆったりと歩き出した長身の友人は、腰を抜かしている娘の救助へと赴く。とげとげしい気分だったので「ディアにやさしくしなくていいですよ」と心でこっそりつぶやいた。
燠火の四人とジェダスは、ローグの旋風になぎ倒された導士達の様子を、順番に見て回っている。
大きな怪我はないようだ。
正気を取り戻した彼等は、真っ青になって硬直していた。自分のしたことが信じられないのだろうか。人を操る真術を、身をもって体験した過去を思い出し、ついつい同情してしまう。
「俺達は先に帰るぞ」
唐突に宣言した黒髪の相棒。散り散りになっていた友人達の視線が、一気に集中する。
「先にって……、こいつらはどうするんだ?」
まだやることが残っているだろうと、赤毛の友人は呆れ顔になった。
腕の中で収納されている格好で、ローグを見上げた。恋しい彼は、戦闘が終わったのに険しい表情を崩していない。
「知るか。顔を見ているのも気分が悪い」
嫌悪を滲ませた声音が、場に響く。
硬直していた導士達の顔色は、ますます悪くなっていった。
彼等は真術によって動かされていただけ。
その事実が明白になったいま、彼らを責めても意味などない。
頑なな態度を見せる彼に、誰もが疑問を持ったらしい。互いに顔を見合わせて、何と言おうかと悩んでいた。
「術具の元は辿らなくても?」
ジェダスの問いに彼は背を向けた。慌てたのは自分である。自分を助けに来てくれた友人達に対して、無碍な態度をとったら申し訳ない。
「ま、待ってください。……どうしたのですか、貴方らしくもないです」
黒が自分を見る。
しかし、ぐっと強く抱き寄せられただけで、言葉は返らなかった。
「なあ、ローグ。少し待っててくれ。オレも一緒に行くからさ。サキちゃんの治療はまだ終わってないんだぞ」
「帰っているから、後で家に来てくれ」
「……おいおい」
「このような場所に、サキを置いておけない」
抱き寄せられたあたたかい場所で、彼の気配に触れる。
荒れている海の中、感じたことのない何かを察知した。自分を案じるやさしい気配に混じって、見慣れぬ影がある。
そっと彼の胸に手を置いた。
直に触れれば答えが得られるかもという、甘い考えが自分をそうさせた。
「こいつらだって悪気があったわけじゃ……」
ヤクスの言葉に、ローグが足を止める。
「そうだと言い切れるか?」
ぬくもりを宿した場所から、低く低く憎しみが響く。
「本当に悪気がなかったと、言い切れるような奴等なのか」
影が広がる。
「こいつらが真術に操られていたことはわかっている。しかし、どうしてサキを生贄として選ぶ必要があった。仮面には、人心を操る真術が籠められていたのだろうな。気配に疎い俺にだって、それくらいのことはわかるさ。だがな――」
ローグが青い顔をした導士達を、その眼差しで裂いていく。
中には耐えきれず、俯いた娘もいた。
「だが、それが何故サキでなければならなかった」
壁際から細く、仮面が……と言う声が聞こえた。
片手に弓を握り、脂汗を流している男が、力なく首を振りつつ訴えた。
「仮面が……、娘の血が必要だと、そう、言って……」
「"娘の"だろう? サキにしろと仮面が言ったのか」
「チャドがっ! チャドが"呪い"の娘だと言ったから。……だから」
自分が選んだのではないと否定する男。その在り様が彼の感情を高ぶらせた。
「――そうだ。確かにそう言った」
振り向けばエリクに介抱されていたチャドが、仮面と同じような笑顔を張りつけていた。
「そいつは人を不幸にする」
自分を指差す男には、生気が戻っていない。空虚な神官ぶりはそのままだ。
チャドの態度に、今度は燠火の四人が慌てている。
「そいつが、そいつさえいなければ、妙な揉め事だって起こらなかった! 人の心を惑わせて、巻き込んだ挙句、不幸にする。いつかお前達だってそいつの毒牙にかかることになるさ!!」
視線がチャドに吸い寄せられていく。
自分を見ているようで、どこも見ていない灰の瞳。その色に誘われ、誰よりも鋭敏な勘が働きはじめた。
「いい加減にしろよ、チャド! サキさんは何も悪くない。リーガのことを言っているなら、ただの逆恨みだ!!」
出された大声に反応して、またどこかで鏡が割れた。
割れた拍子に、天からこぼれている輝きが跳ね返り、チャドの青白くそそけた顔を照らす。
首から下げられた赤黒い色石が、鈍く光った。
真眼は、その光を見逃しはしなかった。
「……首飾りを」
燠火の四人が自分を見た。四人の視線にさらされても、嫌悪が出なかった。記憶にこびりついていた恐怖は、風化していたようだ。
「首飾りを取ってあげてください。それも……術具です」
黒の耳飾りをしている男が、チャドの首に下げられている色石の輪をつかむ。
いままで抵抗らしい抵抗を見せなかったチャドが、猛然と暴れ出したのを他の三人で抑え込んだ。
揉み合いの中、首飾りが千切られて床一面に色石が転がった。途端、叫んで倒れ伏したチャドに、今度こそ本当に終わったのだと息を吐いた。
「……ローグレスト、これで終局だ。いい加減に気配を収めろよ」
荒れた場を整えようとする友人の努力を、ローグは受け入れようともしなかった。
「冗談ではない。サキが許しても、俺は絶対に許さない」
「そいつらのことは許したじゃねえか。"共鳴"は許せても、真術は許せないってのかよ?」
ああ、どうしよう。
彼の中にある影が、どんどん大きくなっていく。
……嫌だ、こんな気配。彼には全然似合わないのに。
「違う。こいつらの元々の性根が由来しているからだ」
じわりと影が伸びる。彼の中から追い出そうと、矮小な真力を精一杯放つ。
「こいつらは元からサキを下に見て、嘲笑っていたからな。自分の性根から出た負の感情に、真術が乗っかっただけだろう。己よりも真力が低い"落ちこぼれ"ならば何をしても構わんと、勝手なことを思っただけだろうが!」
思ったように真力が出てくれない。
届け、届けと願っているのに、ちっとも彼の心に入り込めない。
「どいつもこいつも……、よくそこまで人を見下せる。己が素晴らしい人間であるつもりか? 選ばれた人間であると、本当にそう思っているのか。……真力が高いから何だ。真導士が何だというんだ!」
彼の感情と共に世界に放たれる真力に、くらりと眩暈がした。耳鳴りも遠のいてくれない。
高く高く鳴り続けている。
よみがえる。
このままではよみがえってしまう。
幾重にも編んで、眠らせていた"あれ"が。
この地に。
女神の大地に降り立ってしまう――。