蒼天のかけら 第七章 旋廻の地
雛の行方
とろんとした瞳の中に、自分の顔が写っている。
眠気をがまんしているつもりだろうが、長くは持ちそうにないとあたりをつけた。先回りをして肩にショールを羽織らせる。
やんわりと笑んだ彼女から、薄いリテリラが香ってきた。
せっかく買い与えたというのに、ロザンはめったに使わない。外出用として使うと決めたらしい。
「部屋に戻るか」
聞けば大丈夫といったように首を振る。
「少し……眠いだけですから」
眠りの病は治っていない。それでも状態はかなりよくなった。
肩に寄りかかってきた彼女。香るリテリラを吸い込んで、深く息を吐き出した。そのまま目を閉じて、静かに眠りへと沈んでいく。
ようやく血色が戻ってきた頬に手を添えた。
薄い金の睫毛が、ささやかにゆれている。表情の柔らかさを確認してから、たったいま書きつけたばかりの文字に視線を落とした。
"呪い"の場の夢。
最後の最後に見たという夢の結末は、彼女の心を安らかしてくれたようだ。
(助けが来たのです。彼女が望んだ通りに……。恋人、なんだと思います)
何でか照れながら報告をしてきた彼女。
悲しい過去ばかりでなかったとうれしそうに話してきた。思わず自分の頬も緩む。
サキを喜ばせたそれを最後に、生贄達の夢はまったく見なくなったという。前触れもなくはじまった夢騒動は、何の法則も見出せないまま終わりを迎えた。
宙に浮いた疑問を解消する方法は、いまのところ思いついていない。
真導士の里に来てから、ずっとこれの繰り返しだ。答えが得られればいいのだが……暗中模索とはまさにこのことだろう。
小さな寝息が聞こえてきた。
細い呼気を耳に入れつつ天井を見上げる。
夏の強い日差しが床を反射して、天井を照らしている。どれくらいそうやって時を過ごしていただろう。道を歩く、一つの足音が響いてきた。
「おーい、お邪魔虫の登場だ。開けてくれ」
自ら名乗るとは、呆れるほど律義なお邪魔虫だ。
寄りかかっていた彼女の身体を、長椅子に横たえる。孤独を嫌う彼女は、人気のある居間で昼寝をすることを望む。
他の男の前で無防備になって欲しくないけれど。彼女はどうしたって儘ならない。
扉を開けてみれば、お邪魔虫が暑い暑いとローブの襟を緩めている。
「夏用のローブにしていないのか」
「もらってきたけど、着てくのを忘れたんだ。……サキちゃんは?」
「さっき寝たところだ。すぐ起きるだろうから、水でも飲んで待っていろ」
「そうさせてもらおうかな」
我が家に入り浸りがちな長身の友人は、許可も得ずに堂々とくつろぎ出す。ヤクスは眠るサキの顔色を少しだけ窺ってから、人のよさそうな笑顔を浮かべた。
「食事はとれてるみたいだな」
よかった、よかったとのんびりとした声で言う。
「そろそろ学舎に顔を出したらどうだ?」
食卓に置いてある水差しを持ち、自分で水を注ぎながら問いかけてきた。
言われるとわかっていても、実際にそうなると嫌なものだ。
「見回りが強化されたから、ギャスパル達を警戒する必要もなくなった。他の連中も座学に参加し出してる。二人だけ顔を見せないのは不自然だ。ただでさえ目をつけられてるんだから、意地を張り過ぎるのはまずい」
「まだ、少しふらついている……。無理をさせてまで行く必要はないだろう」
しばし紫紺と睨み合う。
窓から入る夏の気配。時折、風が植物を撫でさする音が聞こえた。夏の訪れを歓迎している草の匂いが、風に乗って居間に届いてくる。
「"青の奇跡"は――」
紫紺が自分から逸らされる。
視線の流れた先には眠る彼女がいた。
「お前が編み出した真術ということになっている。サキちゃんは大怪我をした上に、強い気配に飲まれて気絶した。……ジェダスもクルトも、他の連中もそう信じている」
こいつは本当に厄介だ。
目を閉じて、訪れてしまった現実を真正面から受け止める。
「この方が信じやすい……。史上最大の真力を持つ真導士なら、強力な真術の一つや二つ、隠し持っていても不思議じゃない。ローグが"青の奇跡"を持っている。そういうことにしておけば、誰も真実には辿りつかない」
そうだろうと言うヤクスの目には、何かを憂う色が浮かんでいた。
「彼女の能力は異端だ。異端ではあるけど、使い方一つでものすごい力を発揮する。……使いたがる奴なんてごろごろいるだろうな」
「ヤクス……」
「その上、彼女の真力は脅威とはならない。力で従わせようとすれば簡単。それこそ"共鳴"させるのにも苦労はいらない。欲深い人間に見つかったら最後だ」
彼女を見ていたはずの紫紺が、自分へと向かってくる。
深い色。
決して誤魔化しを許さない……誤魔化したいとも思えなくなる独特の輝き。
「だから隠して守ってたんだろ。お前が矢面に立って、サキちゃんを目立たないようにして。誰にも真似できないような力を、彼女が有してると知られないように。……"落ちこぼれ"も積極的には否定してなかったから、ずっとおかしいとは思ってたんだよ。でもやっと理由がわかった。二人にとって……少なくともローグにとって、"落ちこぼれ"と言われている方が都合がよかったんだ」
反論の余地はどこにもない。
「ヤクスは、何でサキが"青の奇跡"を持っていると……?」
「近くにいたから。サキちゃんが気絶してないのは見えていた。ローグが彼女を止めようとしているのも聞こえていた。あと……実はあの時、ちょっとだけ青を飛ばしてみたんだ。彼女の気配は特徴的だって言っただろ」
「いやな奴だな」
そう言えば、朗らかな顔で笑う。
「お互い様だ。大事なことばかり隠すからなお二人さんは。――さあて、観念して全部白状してもらおうか」
「長くなる」
「泊りの用意はできてるよ」
抜かりない返事に、それらを隠していた沈黙の蓋を取り払うことにした。
ついに暴かれたかと思う反面、やっと話ができるとも思う。本当は心のどこかでこれを望んでいたのだろうか。
真導士となったあの日。
サキと出会ったあの日からの出来事を、並べてさらす。"迷いの森"で。ベロマで。日々の生活で起きた彼女の異変。
常にまとわりつく"青の奇跡"と、記憶の混濁。
誰にも言えなかった。
口に出したら終わりだと、いつしか信じていた。
この腕の中にいる彼女を、見失うことなどない。夜を迎えて、朝を過ごして。幾度となく確かめているというのに、心のどこかでまだ信じ切れていない。
サキが儚いと評されるたび、心臓が鷲掴みされたように感じてしまう。
それは、自分の中でもそう思えているからだ。自分の内なる声を、掘り起こされたように思えるから堪らなくなる。
長い長い回想を終えた時、居間は夕日色に染まっていた。
「……本当なら、中央棟に行って正師にでも相談しようと勧めるとこだけど」
黙って話を聞いていたヤクスは、引っ掛かるような口ぶりで語り出す。
「里のことをもっと知ってからにしとくか」
「めずらしいな」
少なくともヤクスは、里の在り方にも、里の上層にも疑問を持っていなかった。
こいつなら一人で抱え込むなとか、正師に相談しろとか言い出すと思っていた。
「今日、ちょっと悩ましい話を小耳に挟んでね。正確に言えばブラウンがなんだけど。……他の実習に来てた高士の中にはさ、里に反発を持っている奴も多いらしいって」
「何だって」
「里というより慧師かな? シュタイン慧師は、前任の慧師よりもかなり強引に物事を進めているんだと。任務を数多くこなしている高士でも、慧師の指針に反すれば端役に追いやられるんだってさ。シュタイン慧師が、サガノトスの慧師となった時、ほぼ独断で里の構造を大きく変えさせた。自分の周りを側近ばかりで固めて、反対勢力は徹底的に排除した。一部では独裁とまで言われているとか何とか」
急激に口の中が干上がっていく。
唾を飲み込み喉を湿らせた。
「年若くして権力を握ったから、力を行使するのに夢中だと……悪く言っている連中も多いらしい」
「慧師は、真導士の里の中では絶対の存在だ……」
「表向きはってことでしょ。ローグだっていつも言ってるじゃないか。金と権力と真力まで揃った場所が、汚れていないことは絶対にないって。里は一枚岩ではないんだ。慧師と、慧師に反発する側の……最低でも二つの勢力が存在してる」
夕日が角度を変えて、まともに両目を刺した。
突き刺さった橙の明るさに、目の前が眩む。
「里の上層は……。三人の正師達は慧師の側近だな。オレ達にとっては高士よりも近しい存在だし、頼りにもなるけど……」
ヤクスが濁した言葉を、自分の考えで繋ぐ。
「正師達が。慧師と連なる真導士が、サガノトス全体で見て正しい思想なのか」
言った後に、自分の発言を自分で否定した。
「そもそもサガノトスにとって何が"正しい"ことなのか」
「もっと言えば、オレ達にも"正しい"と思えるのか……だな」
沈黙が、耳に痛い。
無言が沁みた大気は、気力を大いに乱すものだ。
「俺達は、何も知らない」
そして、知らないということは途轍もなく危険だ。
「雛とは絶妙な例えだな。親鳥が与えるものだけを口にして、巣の中で守られて育つ。つまりだ……巣の中で囲っておけば、親鳥の与えたいものだけ与えて、望んだように育てることも可能ということだ」
いまサガノトスの巣の中には、一羽だけめずらしい雛がいる。
めずらしい雛がいると知ったら、親鳥はどうするのだろう?
雛を守るのか。使い勝手のいい駒として育てるのか。それとも――?
「ローグ。言っておくけど、オレは里と敵対しろとは言っていないからな」
ざわつく感情の気配を察知してか、ヤクスは諌めるような口調となった。
「わかって……」
「わかってないよ。そりゃ"呪い"の場の件だって、うやむやにされた感じはあるし。オレだってむかついてはいるさ。でも、あれだけで里を信用できないと言い切れるか? わからないこと。見えないことを、全部が悪だと決めつける方がまずい」
ヤクスの言っていることは正論だ。
頭では理解できている。だが――
「手遅れになったらどうする?」
「ローグ」
「失ってからでは遅い」
食卓に置かれたグラスに後方の光景が反射して、眠る彼女をぼやけながら映った。
「奪われてたまるか」
何者にも渡さない。
相手が誰であっても。例え母なるパルシュナであろうとも。青く広がるその世界であろうとも。
――絶対に、渡すものか。