蒼天のかけら 第七章 旋廻の地
十二年
「御苦労であった。もう下がってよいぞ」
報告に参上していた高士は、一礼をしてから執務室を退去した。
残されたのは慧師と正師の三名のみ。
慧師は窓際に立ち、夕焼けに染まるサガノトスを何を言うでもなく眺めておられる。
ローブの袖に腕を隠して、ただ静かにこの場に君臨する。
「十二年か……」
何の感慨も持ち合わせていないかのように思える口調。己が側近くに仕えはじめてから一度も、慧師が感情を露わにする場面に出くわしたことはなかった。
「慧師、再考願います。あの娘は、必ず災いの種となりましょう。ぜひとも里からお出しになっていただきたい」
教え子への侮辱を、腹立たしい思いで聞いた。
反論を述べようとした己よりも先に、慧師がこちらを向く。白銀の視線をまともに受け、荒れる気配をゆっくりと沈めた。
「ナナバよ、違えるでない」
かつての教え子と相対するナナバ正師の表情は、どこか淀んでいる。
「あの娘の名はサキだ。それ以外の何でもない」
二人のやり取りは、己とムイ正師にはわからないことがある。だが問いかけることはするまい。
サガノトスの最高機密にあたるそれに、安易に触れてはならないのだ。
「呼べ――」
次いで出た、絶対的な指示に姿勢を正す。
「あれを早急に呼び戻せ。一刻の猶予もならぬ」
「御意」
三人の正師が同時に一礼をする。
サガノトスには、また夜が訪れようとしていた。
鬱蒼と生い茂る緑の道は、夏の濃い大気があふれている。
歩みを進めるたび。森の中で騒々しく喚いている虫達が、わずかに声を潜めた。
夏の匂いに混じって、血の香りが立ち昇る。
今宵の鼠は、また盛大に逃げ回ってくれたものだ。おかげで生臭い匂いがまとわりついてしまった。
里に戻るのはいつ以来だろう。思い出そうとしてみたが、そもそも興味もなければ感慨もない。
どれくらいぶりでも構わないではないかと、思考を途中で切り捨てた。
濃い匂いを含んだ、一陣の風が森を駆け抜けていく。放り過ぎていた前髪が煩く靡いた。そして、視界に入り込む白の花を見つけてしまう。
草木の中、一輪だけ咲くマーディエル。
風に手折られそうな細い茎を持つ花。記憶の中、埋葬されている忌むべき花だ。
星灯りに照らされて、淡く命を誇るマーディエルを見ても、もはや心が動かされることはない。
感傷など、とうの昔にこの身から捨て去っている。
止めていた歩みを、再び進める。
先を急ごう。
絶対の指示の下、里への帰路を行く。報せを受け、ついに時が訪れたことを理解した。
自然と手が、胸元のローブと布の下に眠るそれをつかむ。
十二年。
巡ってきた"二つ星"。
合わせるように活発化してきた鼠達と、不穏な気配。どれほどこの時を待っただろう。
血臭を放ちながら、顔を歪める。
闇夜に瞬く吉凶の星に、目を向けた。
滾る感情が何を示しているのか、いつの間にか忘れてしまった。それで構わない。元より己の為だけのものだったはずだ。
知らずにあふれた真力に慄き、森の住民たちが怯えた声を出す。風に狂わされざわめく木々の合間に、逃げ惑う小さな獣の気配がしている。
(真力を抑えていただけませんか)
しんとなった森の中、いるはずのない者の声が降ってきた。
何故。
いま思い出したのか。
(バトさんの真力が強過ぎて)
困ったように眉根を寄せて、小首を傾げた姿がありありと浮かぶ。
(これでは休めません)
住民達の声を代弁する幻聴に、歪めていた顔から力が抜けた。
……まったくどういう神経をしているのだ。人の思考に割り入ってくるなど。
当人が聞いたら、盛大に吠えそうなことを脳裏に浮かべる。森の大気を大きく吸い込み、血を含んだ肺の汚れを一気に吐き出した。わずか軽くなった足取りで、帰路を行く。
もう届いた頃か。
不貞腐れて小屋の中で蹲っている犬の姿を闇夜に見た。
"二つ星"は、夜を迎える毎に輝きを増している。
冷たい光が闇色の青を、何も言わずに照らしていた。