蒼天のかけら 第七章 旋廻の地
歪み
深夜に目を覚ました。
昼寝が響いたのか。夜中に覚醒するのは最近ではめずらしい。
ランプからただよう彼の気配に手をかざす。指先がかじかんでいるのを、灯る真力であたためる。
季節は夏真っ盛り。昨年であれば、寝苦しさに悩んでいた時期である。
今年に限って寒く感じる。
真導士は夏に強いのかと思った。でもローグとヤクスの様子を見る限り、それはなさそうだ。
無心に指先をあたためてみて気づいた。どうも、全身が冷え切っている。
このままでは眠れない。
夕食に出したスープが、まだ少し余っていたはずだ。
時間を掛けて寝床から抜け出し、足音を立てないようにそっと歩く。
二人を起こしては忍びないと思っていたのに。居間への扉を開けたところで、いまの努力の半分は無駄であったと知ることになった。
「どうした」
遠慮気味に出された低い声が、冷えた身体に沁み渡った。
泊りにきた友人に寝床を譲ったらしい。黒髪の相棒は、ランプに照らされながら長椅子に寝そべっていた。
手には分厚い本。眠れなかったのか、それとも本に夢中になって眠らなかったのか。
灯る炎を映しこんだ黒は、睡魔を寄せつけていないように見えた。
「起きていたのですか」
「ああ」
薄い掛け布を身体から引きはがしたローグは、長椅子に座りなおしてから自分を招いた。
おいでと差し出された手に、目的を忘れた身体が勝手に従う。隣に座って、肩に掛け布をくるりと巻かれる。
彼の体温が、布を通して伝わってくる。
あたたかい。
ぬくもりと馴染んだ熱い気配が、芯まで冷えた身体に幸福を運んできた。
その幸福が、胸のどこかをちくりと刺す。
命を摘まれた娘達は、この幸福を得られなかったのだ。悲鳴と苦痛の中、助けてくれる人もおらず。自身の命の終焉を、見つめていただけだった。
可哀想などと、簡易な言葉では済ませたくはない。
しかし、自分の拙い表現の中から、適切なものを選び出すのも困難だった。
言葉の棺に入れて、丁寧に埋葬してあげたいという気持ちはあるけれど。それができるようになるには、もう少しだけ時が必要だ。
あたたかい手が添え髪に触れた。
髪を撫でている指からぬくもりを感じる。肌に直接当たっているわけではないのに、ローグの熱がふわんと頬を撫でた。
「……ローグ」
もっと気配を感じたいと心で願う。
ランプの炎を囲っている黒の瞳が、うっすらと細められた。
馴染んだ気配は、彼に気持ちを運んでくれる。口に出すのは恥ずかしい。でも、これなら存分に甘え心を訴えられる。
強欲な癖に、言葉足らず。
……それでもって意気地なしだ。
照れを隠し、自分を散々に詰っておく。
これで罪滅ぼしとはならないだろう。でも、そうでもしないと罰が下りそうだと思う。ローグには理解してもらえないけれど、どうしても後ろめたい。自分だけ幸せを謳歌するなど、許されないような気がするのだ。
ぱちんと額が音を出した。
かなり加減をして放たれた攻撃。
目の前には、少し機嫌を悪くした黒髪の相棒。彼は黙ったまま、じっとこちらを見ている。
しまったと思っても後の祭り。自分の気配は、余計な考えまで彼に運んだようだ。
「……サキ」
「ごめんなさい。変なこと考えました」
素直は最大の防御なり。
カルデス商人の本格的な攻撃を避けるためには、素直でいるのが一番だ。
黒髪の相棒は、よろしいと尊大に肯いてから、半分しか開いていなかった真眼を全開にしてくれた。
額を合わせ、深呼吸をする。
そこに広がる穏やかな海。終わりのない彼の世界を一人占めする。
水遊びをしたことがない自分でも、溺れる心配がないローグの気配でなら安心していられる。
気配の中を泳いで進むごとに、体験した娘達の思念が、洗い流されているように思った。一人の思念を降ろすと、その分だけ自分の身体が軽くなる。
眠りの病を発症してから、ずっと感じていた倦怠感がちょっとだけ薄くなる。
たぶん気のせいだ。
薄くなったと錯覚しているだけだ。自分は何て単純なんだろうか。
ぐんぐん泳いで進んでいけば、より熱い海の領域に当たる。
熱に埋もれようと深く入り込んで――顔にかっと血が満ちた。
「――っ!」
迂闊なことをした。
大慌てでそれから離れる。
ついでに距離を取ろうと身体に指令を下したが。とっくの昔に黒の檻には、錠が降ろされていた。
「あの、腕をっ……」
がっちりと固められた腕から逃れられず、じたばたとする。
「大声を出すな。ヤクスを起こしてしまう」
喉で笑う彼の口調は、やさしい。
これで妙な色を帯びてなければもっといいのにと、焦りながら思った。
「人の心を盗み見ておいて、逃げようとするなど卑怯だろう」
ごもっともと納得しそうになる。しかし、流されてはいけない。
ここで流されてはまずい。
絶対にまずい。まずい度合いで言えば、酔っぱらったローグと相対した時の、三倍くらいはまずいだろう。
毅然とした態度で撤退するべきである。
指揮|勘《・》が、断固とした指示を下した。
一兵卒である理性はただ黙々と従うのみだ。
「離してください」
「いやだ」
最近の相棒はどうもわからず屋だ。
いたずら小僧の次は、わからず屋だなんて……。変わり身するにも種類を選んでいただきたい。
「人の腕に飛び込んできたのは自分だろう?」
ぐいと身体を引かれ、顔を固定された。
わからず屋の悪徳商人殿は、愉快そうな顔をしている。
「それは……」
黒の瞳の奥で、きらりと何かが光った気がした。
「警戒するにしても遅い。逃げ帰ろうと必死になるより、夜着姿で人前をうろつかないことを考えるのが先だろう」
目をぱちぱちと瞬く。
……彼を見て、自分を見てから我に返った。
頬が、火であぶられたような熱を持つ。
自分は、何とはしたないことをしていたのか。
眠りの病のせいだ。夜着姿でいる方が多かった。だから、完全に忘れていた。
羞恥で硬直した自分に、ローグはさらに追い打ちをかけてきた。布で覆って隠している後ろ髪の束を、おもむろにつかんだのだ。
恥ずかしさで汗が浮いた。
捕縛された後ろ髪をまとめている布には、麻紐が巻かれている。きちっと結わえている蝶結びの紐。ローグは、麻紐で作られた頼りない輪に人差指を潜らせた。
「解くのは簡単だ」
感情が落とされた声音。緊張のあまり、唇が震えた。
「自分が女だということを忘れているのか……?」
「忘れているわけでは……」
否定しようとしたのに上手く言葉が出て来ない。
身を切るような無音の世界。心拍数だけが上がっていく。
彼の瞳を見られない。
怖くてとても見られない。
「無防備が過ぎる」
「ローグっ……」
口を塞がれた。くぐもった音が、彼の手の平にこもる。
首に柔らかい熱を感じた。悪寒に似た、味わったことがない何かが背中に流れる。
「ほら……、抵抗できない」
吐息が、一瞬前まで熱が触れていた場所にあたる。熱を加えられていた反動で、吐息に冷たさを感じてしまう。
背中がぞくぞくする。
熱風邪に魅入られた時のような寒気が、自分の背後で勢力を拡大する。
足掻きをものともせず。またも彼は、首筋に口付けを落とした。
「サキを見ていると、もどかしい気分になる……」
理性が白く焼き尽くされていく。
「他人ばかり案じて。どんな危険な目に遭わされても、自分の痛みはどこか他人事だ……」
口付けの合間に出される吐息が、くすぐったい。
「里に来てからずっとそう。互いを守ると約束したはずなのに……、俺から離れるとすぐ自分をおろそかにする」
彼の気配の中、あの時感じた影を見つけた。
「何度言っても直らない」
そして同時に気がついた。彼が触れている場所は、仮面達に傷つけられたところだ。
癒しを掛けて傷は塞がっているが、赤い筋が残されている。時が経てば残っている赤い筋も消えると、ヤクスがしっかり保障してくれている。
自分の中では過去となっていた傷口を、彼は唇でなぞっている。
「いっそ、どこかに隠してしまおうか」
口を覆っていた手が離れた。
首筋から昇ってきた唇が、自分の唇に触れる……寸前で止められた。
至近距離で自分を貫く眼差し。奥には燃え盛っている炎。
「誰の目にも触れない場所に、仕舞っておこうか」
ぞわりと鳥肌が立った。
炎に混じる影の気配が、気になって気になって仕方ない。
「見つからなければ傷つけられることもない。誰にも奪われることも、ない……」
ローグは、いつかの弱い自分と近いことを言う。
「誰にも――」
目元を忙しなく血潮が巡る。
むき出しにされた独占欲が、容赦なく襲いかかってくる。
自分のちっぽけな牙など、何の役にも立たないと思える脅威。噛みつかれたら、骨ごと食い千切られてしまうような大きな牙。
怖い。
大好きな黒の瞳が。
いつも自分を守ってくれる、恋しい人が怖い。
「ローグ。ローグやめて……。お願い」
「もう遅い」
低い声が耳に注がれる。やさしさが微塵も感じられず、恐怖が募る。
「や、あっ……!」
ぎりっと背中が圧迫された。加減されずに締められた身体が悲鳴を上げる。
違う。
こんなのは違う。ローグらしくない。
開きっぱなしになっていた真眼が痺れている。凶暴な真力が、無遠慮に侵入してきている。とても受け止めきれない
耳鳴りが……する。
彼の腕の中が。ローグの傍にいることが危険だと、本能が判断を下した。
悲しい事実に、涙が伝う。
恐怖よりも強い悲嘆が心に刺さった。
「……っう」
決壊した感情が、雫と化して落ちていく。唇を噛みしめて耐えてはみたけれど、止まらない。
ローグが怖い。怖いと思うことが悲しい。
好きな人なのに。大切な人なのに……。大事な想いを汚してしまったようで、自分への嫌悪も止まらない。
「サキ……」
戸惑いを浮かべた声がする。
瞼は開けなかった。堰を切った感情を留めておこうと無駄なことをする。
腕が緩められた。
黒の檻はどこにもない。
けれど、長椅子の上から動くことができなかった。
夜はこれだからいやだ。
暗くて怖くて……。助けを求めることも難しい。
手で顔を覆った。くしゃくしゃになった顔なんてローグに見せたくない。
熱い手が、夜着越しに背中へと置かれた。全身が反射的に強張る。慄きに接触した手は、逡巡した後、ゆっくりと離れていく。
緊迫した声が謝罪を出した。
戸惑いを大いに滲ませた声に肯いて、肯いて……止まらない涙を拭い、また肯く。
この夜、ぴたりと寄り添っていた二人の間に歪みが生まれた。
埋めることは容易かったかもしれない。しかし、この夜にそれが成されることはなかった。
天に輝く"二つ星"。
まとう光が、日を追うごとに強大になっていることを、まだ二人は知らない。
サガノトスに眠る、大いなる影にも――気づかないまま。
運命は二人を飲み込もうと、ついにその口を開いたのだった。