蒼天のかけら  第八章  因果の獄


広がる距離


 ふつ……と、感情が熱を発した。
 沸き出た熱を誤魔化したくて目を逸らす。
 途端にゆれる真力。
 不安げに渦巻き、流れを乱した彼女の気配。それに触れて、しんしんと罪悪感が降り積もる。
「どうかしましたか……?」
 細く小さな声。
 寂しさを訴える彼女の声。
 自分の感情と、彼女の感情の間で板ばさみになってしまった。窮屈な思考は常のように正しく機能をせず、出してはいけない結果ばかりを生む。
 寂しがりの恋人は気配に敏い。何でもないと伝えたとしても、言葉の通りに受け取ってくれないだろう。
 埋めたいと願った亀裂は、重ねた自分の行いのおかげですっかりと拡大してしまった。心の距離は日々遠くなるばかり。
 これは絶対にまずい。
 だが、情けないことにどうしていいかがわからない。
 学舎へ向かう道の途中、二人並んで黙りこくった。
「あの……」
 言葉を探しても見つけられなかった様子のサキが、小さく言ってから俯いた。
 俯いたせいで、細くて白いうなじが日にさらされる。整わない気力と沸き立つ感情が、自分とサキの邪魔をしている。
 不安を隠そうとして、強く握られた彼女の手を見る。何もできない自分は、彼女の中で拡大し続けている渦を、暗澹とした気分で感じ取っていた。



 自分はいま、人生最大の危機を迎えていた。
 クルトは大げさなと笑っていたものだが、少なくと自分は真剣だった。
 ただでさえ妙な男の影がちらついている。油断大敵だということもわかっている。
 それでなくとも蜜色の相棒は、何故だか厄介事に巻き込まれやすい。できる限り傍にいて、彼女を巻き込むであろう災いの芽を摘む必要がある。
 距離を開けるなどもってのほか。

 だというのに。
 どうしてこうなってしまうのか。

 このままでは、いつかサキが離れていきかねない。現に、昨日より今日の方が彼女との距離が開いていた。
 少しずつ、そして確実に。自分達の気まずさも増してきている。
 頭上を夏の日にあぶられながら立ち尽くす。気まずさを払拭しようと手を伸ばし……何も成せないまま元の位置に戻した。
「ねえ、ローグ」
 サキが俯いていた顔を上げてこちらを見る。無理に作った笑顔がそこにあった。
「やっぱり怒っているのでしょう?」
「いや……」
 そうではない。
 何度もしてきた問答だ。それでも繰り返させてしまうのは、ひとえに自分のせいである。無理に作っている笑顔。彼女にはあまりに不似合いな表情。それをさせているのも、やはり自分のせいであった。
 辛い笑顔を深めたサキが、聞いて欲しくなかった疑問をとうとう口にした。
「気持ちが変わったのですか……」
「違う」
 即答した。
 いつか問われると思っていた事柄。もしも聞かれたら、決して間違えず答えようと決めていた。
 取るべき道は違えなかった。しかし、ゆれる琥珀に涙が滲んできてしまう。
 焦るなんてものではない。
 彼女を泣かせたいなど、微塵も思っていない。
「わたしは大丈夫ですから。本当のことを教えてください……」
「これが本当だ、気持ちは変わっていない。それだけは絶対にない。……頼むから信じてくれ」
 夏の真昼間、人の気配もまばらにある道の真ん中で懇願した。恥だ何だと考える余裕はなかった。
「では……」
 細い声が途切れた。大気に消えた言葉の続きを、気配の中から真眼が拾い上げた。

 ――どうして?

 悲しい声が頭に滲みていく。儘ならない現実に絡め取られていた右手が、すべてを振り切って勝手に動いた。
 涙を拭うべく頬に触れようとしたその手前で、腕からするりと色彩が落ちていった。
「あ……」
 つぶやいたのは同時。
 大地に落ちた組み紐。彼女が編んでくれた大事な術具。
 乾いた大地に落ちた鮮やかな色彩を、白い手がそっと拾い上げた。
「切れて……しまいましたね。ごめんなさい、しっかり編んでいなかったから」
「謝らないでくれ。きっと俺が乱暴にしたからだ」
 何ということだ。
 このような事態となるなら、修業場に行く時は外しておけばよかった。
 自分の不手際を呪い、いまにもこぼれ落ちそうになっている涙をひたすら注視した。
「後で、捨てておきます」
 悲しげに出された台詞に、心臓が止まりそうなほど驚いた。
「待て」
 つい語気が強くなる。
 言葉の強さにびっくりした様子の彼女。涙を湛えた琥珀が、少し大きく見開かれた。
 滲む琥珀の中で、情けない顔をした自分が詰るように見返してきている。
「待ってくれ。繋げばまだ使えるから」
 今度こそ、伸ばした右手で彼女の白い手を包んだ。ひやりと冷たい手から鮮やかな色彩を受け取り……力を込めて握る。
 予感がした。
 サキより鈍いはずの勘が、ここにきてそれを察知した。

 空いていた左手で、彼女の冷たい手を握る。彼女を連れ歩き、その影側で組み紐をポケットの奥深くへと仕舞い込んだ。
 何かを暗示するように切れた組み紐から、感じるはずがない重みを得た。
 晴れ渡る空。
 いい天気だと評すべき蒼天が、どうにも不吉だと思える。

 最近の自分は、本当にどうかしてしまっているのかもしれない。

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