蒼天のかけら 第八章 因果の獄
待ちぼうけ
……やっと、解放された。
パルシュナ神殿に行って帰ってくるだけだと聞いていたのに、もう夕方だ。
一つ前の角でヤクスと分かれ、歩みを速めた。
早く帰ろう。
家で待っているだろう寂しがりの猫を思った。夕飯の時間も近い。いまごろなら炊事場にいる。
昨日は勝手をしてしまった。
彼女の勝手を責めていた癖に、自分も似たような行いをしたから少しばかり格好がつかない。
格好がつかないことはもう一つあった。
いまもポケットで重みを主張している、例の組み紐だ。
あれだけ努力をしても、一向に上手く組み上がらない。最初はいいけれど、途中から均等に組めなくなり。最後までいくと不格好になってしまう。
自分が不器用なのかと思ってヤクスにも試させたが、同じように不格好な紐が一本増えただけだった。サキもティピアもユーリも、よくあれを組めたものだ。娘と男では手の造りが違うのかもしれん。
元通り腕に戻してから帰ろうと思っていたけれど、どだい無理な話だったらしい。……情けない限りだ。
今夜、寝る前にもう一度試して、駄目だったら謝って作り直してもらうか。いつまでもいつまでも組み紐を着けていなければ、また不安にさせてしまう。
とにかく信頼回復が第一、かつ絶対条件。
彼女の心を痛める要素は、どれだけ小さかろうが排除する必要があった。
つと、昨日の泣き顔が脳裏を駆け抜けていく。
大丈夫か。
寂しい思いをしていないか。
また、不安にさせていないだろうか。
顔すら見たくないと思っていた奴等のせいで、昨夜の努力の成果は崩壊している。
崩壊しているが、帰宅することを選んだ。
ヤクスから貰った睡眠剤もある。最悪の場合はこれを使おう。
今日は何としてでも家に帰る。
離れていると不安だ。
心配だ。
すべてにおいて悪い想像しかできない。
考えてみれば。
里に来て以降。つまりサキと出会って以降、彼女と一日ずっと会わないということがなかった。もはや自分は、清涼な気配が傍にあることを当然と思っている。
故郷の兄達にばれたら、贅沢者だ何だと絡まれそうだ。諸々と面倒が多い兄弟には、まだ内密にしておこう。
これ以上、変にこき使われては堪らない。紹介するとしても二番目、三番目の前に、一番目に会わせよう。長男が家に帰ってくるまでは誰にも言うまい。
もっとも安全な流れを模索しつつ、角を曲がる。
静かな景色の中に家が見えてきた。夕焼け色に染まった家の窓掛けは、しっかり下りている。
いつも通りの光景の中にある、いつも通りの我が家。
扉を開け、居間に一歩足を踏み入れれば、腹の虫を刺激する美味そうな匂いがただよってきた。
「ただいま」
帰宅を告げて、炊事場からの返事を待つ。
いつまでも返ってこない控え目な声。
おかしいなと思い、炊事場を覗く。覗いてから唖然とした。炊事場には鮮やかな彩りの野菜がごろごろ転がっている。
いったいどうしたのかと思うほど、大量に揃えられている野菜の群れ。
「サキ、いないのか?」
彼女の許可なく炊事場に入ると怒られるので、様子を窺いながら進む。ちょっと味見しただけだったというのに、盗み食いは良くないと、怖い顔で説教されたことがある。
今日はサキを探しているだけで、味見をしようと思っているわけではないからな。
誰に聞かせることもない言い訳をしつつ、裏手に通じる扉を開いた。
井戸かとも思ったが、こちらにも彼女の姿がない。
「変だな」
買い忘れでもあったのか、もしくは調味料が切れたのか。買い忘れはなさそうだ。これだけあれば数日分にはなる。ということは調味料の方か。疑問に着地点を見つけたのもあり、彼女の帰りを待つことにする。
裏手の扉をきっちりと締め、もう一度炊事場を眺める。
節制の精神を有している彼女にしてはめずらしい間違いだ。何人前作る気だったのか。
苦笑しながら野菜を手に取り。いくつか拾ってから床下の隠し戸を開け……ついうっかり口も開けた。
何と床下も、詰め込まれている野菜の群れで盛況だったのだ。
押すな押すなの大賑わいとは、まさにこのことだろう。
「どうするんだ、これ」
大安売りの日だったのか? そうだとしても買い過ぎだ。常の彼女がしそうにもない行動の理由を、考えに考える。
自身が持つ勘に、生まれた仮説を一つ一つ照会し。しばらくして結論に辿りついた。
(祝いの……つもりか?)
ぽつりと出した可能性は、一拍おいて確信に変わり。二拍おいた時には喜びに変わっていた。
こみ上げてきた喜びと笑いを、どうにかこうにか喉で潰す。
「本気か、サキ?」
いくら腹を空かしていても食べきれる量ではない。
「全部は無理だ……」
全部は絶対に食べきれない。食べきれないだろうが、たぶんこれは全部俺のためのものだ。
どうして彼女はこうなのだ。
いつもいつも自分を振り回す。誰よりも奔放な恋人は、どうしてこういうことをしてくれるのか。
素直なサキの様子が、目に浮かぶ。
うれしそうなサキの笑顔が、目の中に浮かんで離れない。幸福感に身を委ね、行儀悪くも床に座り込んで、手の中の野菜を眺める。
早く、帰ってくるといい……。
帰ってきた彼女に何と言おうか。何を言っても白い頬が、朱に染まるはずだ。
うれしそうに照れ臭そうにするはずだ。
ゆったりと佇む静かな家の中、ただ待った。
幸福な時間に埋もれ、彼女の帰りを待ちわびた。
――しかし