蒼天のかけら  第八章  因果の獄


寄り添う翼


 蹲る幻。
 震えて泣く、恋人の姿。

 やはりそうだ。
 こんなにも怯えている。こんなにも苦しそうに泣いている。
 触れたい。
 抱きしめたい。
 もう大丈夫だと言って、包んでやりたい。

 例え幻であったとしても。
 そこに心が残っているなら慰めたいと、愚かに願う。

 身を守るように蹲り、荒く呼吸をしている。
 白の中ですすり泣く恋人の姿が、目にまぶしい。汗が流れ込んだせいで霞む視界を、懸命に凝らして彼女のあの日を追いかける。
 共にと誓いあったのは、ほんの少し前のこと。
 決して離れぬようにと手を繋いでいた彼女との距離は、願いに反して広がるばかり。遠く遠く離れて、姿すら見失って。このまま永遠にまみえることが叶わなかったとしたら――。

 幻の中。
 彼女が動く。
 激しく、大きく肩を震わせ。耳から手を離し、両腕で身体を抱える。
 真夏の夜。
 寒さから逃れるような仕草をしている彼女。
 この姿には、見覚えがあった。

 ――何だか、背中が痛むのです。

 小首を傾げて、困り顔で言っていたのを覚えている。眠りの病は快方に向かっていたのに、こちらは悪化していた。
 原因不明の痛みが、また彼女を苛んでいる。
 うって変わって背中の痛みに襲われた彼女は、喘ぎながらも床を這いだした。立ち上がれないのか、静かにゆっくりと壁の方に這って進む。壁に……凭れかかりたいのだろうか。
 ようやく壁に手をついた。左手に嵌っている銀の腕輪が、まぶしく光る。
 苦痛の声が、一際大きくなった。
 壁についた手に力が入っている。縋りつく場所を探して、石畳の壁に爪を立てている。
 懸命に爪を立てているのに、ずるずると下がる手。落ちては上げて、できるだけ高い場所に縋ろうとしている。霞む目を凝らして、彼女の手が望む壁の上部へと視線を流した。天井に近い場所に空いている、採光用と思しき穴。
 密閉された牢獄で、唯一開いている外への出口。
 空への――道。
 恋しげに手を伸ばし、空への道を開こうとしている。
 戦慄が走った。
 怖れていたことが幻の中で起きようとしている。伸ばした手が虚空を踊ったそれを最後に、白の中にいた彼女が掻き消えた。最後に見たのは激しい光の渦。
 残ったのは白く輝く真円のみで、彼女の姿はもうどこにもない。

「これで、全部ね……。あとは真力に潰されて追いかけられないわ」
 淡々と語る娘の声が、牢獄で鳴る。
 あの日の彼女への道は、早くも閉ざされた。網膜に焼きつけられた震える後ろ姿を追って、力の入らない足で立ち、歩く。
 クルトに呼び止められた気がした。
 構わず歩いて、壁まで辿りつく。
 ほのかに白く光る壁から、清涼な気配がただよっている。助けを求めるように真眼へと入り、音もなく消えていく風。
 壁に手を添わせる。
 彼女が触れていた場所へと手を重ねた。ひやりと冷たい石畳の壁に強く悲鳴が刻まれている。
 手を動かした。
 そっと。
 傷つけることがないよう、ゆっくり気配を撫でる。後ろから足音が聞こえた。誰も何も言わず出て行く。牢獄を後にする友人達の気配を感じながら、ただ壁に寄り添い続けた。






「見ていられねえよ……」
 全員の心を代弁したクルトは、力なく赤毛を掻いている。
 幻の中にいた恋人。彼女の痛みを和らげてやろうとしている姿は、見ていることが困難なほどだった。
「かける言葉がありませんね」
「一人にしておいてやろう」
 いまだけは。
 だから休んでいるといい。お前が動けないなら、オレ達が道を開いてやるさ。
「手がかり……なかったね」
 泣き過ぎて鼻声になっているユーリちゃんが、手布を握り締め俯いた。
 レアノアが放った"投影の陣"からは、彼女のその後に繋がる手がかりはなかった。もしかしたらレアノアなら、何かつかめるかもと甘い期待を寄せていたのだけど。これからどうしようか。すっかり主導権を預けているレアノアに聞こうとして。振り返ったところにお嬢さまがいないと、やっと気がついた。
「あ、あれ。おーい」
「いるわよ。うるさいわね」
 ひょっこりと姿を見せたレアノア。お嬢さまは、他の牢獄に侵入していたらしい。
「何してるの」
「確認よ。思ってた通りだわ。手分けして探せば、手がかりが見つけられそう」
 色づいた唇が弧を描く。めずらしい微笑みは、自信をたっぷり含んでいる。
「本当ですか」
「ええ、本当よ。だからちゃっちゃと動いてね。手分けしないと朝になっちゃうから。あの娘の気配が戻ってきたら隠されて見つけられなくなるわ」
 疑問が、頭の中で浮かんで弾けてを繰り返している。
 お嬢さま相棒はとっても優秀。優秀過ぎて凡人であるオレでは、ついていくのがなかなか難しい。
「……ごめん、全然わかんない」
 白旗をぱたぱたと振った。
 無理なものは無理。時間も惜しいから先に謝ってしまえ。
 そうすれば麗しのお嬢さまは、思いっきり溜息をついて下さった。嫌々ながら説明だけはしてくれるようだ。
「しょうがないわね。……いい? 聞いた話を整理してあげるから、ちゃんと理解しなさいよ」
 腰に手を当て、細く長い指を一本だけ立てたレアノアが、正師の如く説きはじめる。
「まず前提の話。ここは牢獄の塔で何人もの囚人と兵士がいた。その娘さんが潜入して"暴発"を引き起こした後は、誰一人いなくなってしまった。残されたのは、壁に焼きついた真力と髪留めだけ。何人もいたはずの人間は、綺麗さっぱり消え去っている」
「……"暴発"に巻き込まれたんだろ」
 小さく言ったクルトは、ローグを残してきた牢獄に視線をやった。
「そう考えることもできるけど、不自然過ぎるわ」
「え、何で?」
 全員が一様に目を開いた。
「"暴発"に巻き込まれた割に、場が荒らされていない。さっきの牢獄を思い出してよ。扉の内側に真力は焼きついていたけど、傷がついていたりぼろぼろになっていたりした?」
「いや……」
「そうでしょう。"暴発"に巻き込まれて吹き飛ばされたにしては、建物に傷がついていないの。そもそも娘さんがいた牢の扉が無事なのよ。どうやって他の牢にいた人間を巻き込むのよ」
 はっとする思いだった。
 そりゃそうだ。下の階のように鉄格子ならわからないけど。少なくともこの階の鉄扉は、全部無事。
 レアノアの言う通り不自然過ぎる。
「"暴発"が主因だとすると、失踪の原因と考えられるのは"誘発"。真力を火薬にして自爆するのが"暴発"だって言ったわね。だから火薬のように火が移って爆発することがあるの。"誘発"は、本当に誰にでも起こり得る。人は誰もが真力を持っているから、真導士じゃなくても起こってしまう。だから"誘発"が起こって、全員がいなくなってしまった」
「待ってください、レアノア殿。それでは想定が変わってしまう。確かに"誘発"は誰にでも起こり得るのでしょうが……。扉に損傷がない以上、"暴発"に巻き込まれての"誘発"は考えられない。仮に、"誘発"だとした場合にも話に無理がでてしまう。他の階には、焼きついている気配を感じられませんでしたから……」
「わかっているじゃない。そうなの。だから"暴発"のせいだって考えると不自然になる。この塔に焼きついているのはあの娘の気配だけ。他の階には何も残っていないから、"誘発"で人が消えたっていうのは考えづらい」
 藍色の瞳が、きらりと輝いた。
「……じゃあ、何で人っ子一人いなくなったんだよ?」
「それが手掛かりなんじゃない」
 強気に説明しているレアノアの横で、ユーリちゃんが全然わからないよって顔で困っている。
 大丈夫、安心して。オレもだからとにっこり笑っておいた。
「少なくとも……。少なくとも"暴発"があった時、塔にいた人達は無事じゃないとおかしいの。驚いて逃げたっていうのも可能性としてはあるけど、逃げられるのはきっと領主の手下だけよ。……それなのに囚人もいない」
 ここまで来て、相棒が言いたがっていることがやっとわかった。
「囚人を逃がしてやった人がいたってこと……かな?」
「やっとわかったの、遅いわよ」
 頼りない相棒で、心底申し訳ない。
「わかったのなら探しましょう。あの娘の真力がただよっているから、見つけづらくなっているとは思うけど……きっとあるはずだわ」
 レアノアが言っている手がかり。それを手分けして探そう。
「蠱惑が三人いるなら心強いね。片っぱしから投影で見てみよう」

 あの日、起こった事件の全容を。
 朝になれば、悲しい気配で覆い尽くされて見えなくなってしまうから。

Next  >>


Back  |  NovelTop  |  SiteTop
inserted by FC2 system