蒼天のかけら 第八章 因果の獄
幼き人
白装束の彼女の上に、真っ白な獣を置いた。
青に満ちるサキの部屋で、真実を受け入れるべく光景を見守る。
そして真実が動き出す。
煌めく青に導かれ、彼女の謎が眼前にあらわれた。
「やはり、そうか……」
閉じていた瞼を開き、むくりと起き上ったジュジュに語りかける。
ついつい口調に皮肉も混じった。
イタチにしては利口過ぎるジュジュは、起き上った時からじっとこちらを見つめている。
確かめているのだ。
ローグレストという人間を。この視線は、時折感じていた。決まってサキがいない時に、こうやって自分を見ていることがあった。
「お前だろう。サキを眠らせているのは」
奥で寂しそうに声を出しているサキがいる。
あそこまで一人を怖がっている彼女を、こいつはあえて青に閉じ込めている。
何ゆえか……?
そんなもの、直接聞いてやればいい。
「サキが泣いている。いい加減出してやってくれ。お前にも聞こえているだろう。どうして閉じ込めているんだ?」
自分を確かめている小さな瞳から、目を逸らさずに問う。
閉め切った室内に、風が流れた。
(だめだよ。外はあぶないから)
ああ、こいつは……口も利けるのか。
「あの塔には二度と行かない。俺も、もうサキから離れない」
(それでもだめだよ。もっと先まで隠しているつもりだから)
つぶらな瞳が薄く光を帯びた。自分と同じ黒の瞳が、青く燐光を放つ。
(ほんとうは……、前でもよかった。大きくなったらって約束してた。でも、ずっと隠しておくことにしたんだ。隠れていた方がいい。見つかってはいけないから。半分を返したら見つかりやすくなっちゃうから)
真実の切れ端だけで語る獣。
核心を避けるジュジュへの疑心が深くなる。同じだけ彼女の謎も深まっていく。
(君のせいだ)
「何……」
(君を守りたいって言うから。だから蓋を取ることになった。あれが残っていれば、こんなにサキが痛い思いをすることはなかったのに。蓋がないから押し込めておけなくなった……)
青を帯びた黒が、眠るサキを見た。
(もともと一つだったから、戻りたがっちゃうんだよ。戻ったら……いま戻ったら分けて隠すこともできなくなる。とっくに大きくなっているから、一つにしたら……もう止められない)
一つ。分ける。戻す。隠す。
疑問を深める言葉が羅列されたジュジュの台詞。彼女がまとう秘密の世界。
(隠れていないと……。眠っていれば絶対に見つからない。だから――)
「だからサキの時を止めると? ジュジュ、それでは死んでいるも同然だろう」
(違う)
「違わない。時を止めて、眠り続けているサキは、何を思う? ……何も思えない。何にも触れられない。誰と語らうこともできず、決して笑うこともない。……死んでいるのと何が違う。それをサキが望むのか」
泣き虫で寂しがりのサキ。
彼女のまとう謎は深い。ジュジュが何を恐れているのかを正確に知るのも難しい。口ぶりから、長いこと彼女を見守っていたことを窺わせている獣は、心から案じている。
守り切れなかった恋人を目に入れた。
眠る彼女は何も語らない。だから代わりに自分が伝えよう。共に過ごした短い時間の中で、触れあった彼女の心を。
「サキは巻き込まれやすい。これまでもそうだった。……これからもそうなのだろう」
青く満ちる恋人。
望んでも願っても試練は彼女に襲いかかる。
誓い合ったというのに、小さく弱い自分では……守護にならない。苦難に襲われて、泣き、痛みに苦しむ彼女を見るのは辛い。叶うなら真綿に包んで、何者も触れられぬ場所へ隠したいと望む自分もいる。眠りを強いるジュジュと、大差ない思いを抱いている自分も確かにいる。
「それでも……サキは望むだろう。自ら望み、試練にまみれた道であっても歩みたいと願う」
意外と頑固で意地っ張り。
ついでに負けず嫌いな恋人は、険しき道でも歩むことをきっと望む。試練の合間に訪れる休息の中、新たな友と語らい、見たこともない景色に歓喜して。泣いて、笑って、怒って、また泣いて。
たくさんの色と感情を、その両手いっぱいに抱えて、生きることを望む。
「お前だって知っているだろう」
目が回りそうだと文句を言い。うれしそうにしているサキを。
忙しない日々を過ごし、笑みを浮かべてることを。
無音の中、青だけが煌めく。
白の獣が小さな頭を垂らした。あまりにも人間臭い仕草で、大きな大きな溜息を吐いた。
(君も厄介な人だね。……何でよりによって君なんだろう)
失礼な。
獣相手に本気になるのもどうかと思うが、さすがに腹が立った。長いことサキを見守っていた相手だとしても、言うべきことは言っておこう。
「獣が人に悋気を見せるな。サキは俺の恋人だ」
(獣じゃないよ。失礼だな)
半目になって睨み合う。
その姿では説得力がない。何といっても外見は白イタチ。不思議な力を持っていたとしても、口を利いたとしても獣は獣だ。
奇妙な矜持を見せたジュジュは、とことことサキの身体を歩いた。喉元で止まり、ちょこんと座って鼻面を額に……青を放つ真眼へとつけた。
(一回だけ、試させてあげる)
「何をだ……」
(サキと話をさせてあげる。本当にあの娘が望むのなら、それも仕方がない。……でも、あの娘が望まないなら静かに眠らせる。あの娘を怖がらせる全部が世界から消える時まで、ずっとぼくが守ることにする)
言い切った獣が、こちらを見た。
否やはない。
(いくよ――)
耳が痛い。
気がついたら森にいた。
無音がこだまする暗い森の中で、立ち尽くす。
つい"迷いの森"かと錯覚した。白を帯びた樹木を見たからだ。真力に満ちた森は、知識の中にいまのところ一つだけ。
間違いを知るのに時はいらなかった。この森を作っている樹木は、"迷いの森"と比較できないほど大きく、古いものだったからだ。
周囲をぐるりと見渡し、痛む耳を右手で抑える。
(どこだ?)
奇怪な森。
物音一つしない森にあって、耳だけが苦痛を訴える。遠くから轟く気配が、無音と混ざっている。
気配の源を探して、遠くへと目をやった。
紅い空が、見える。
(何だ……)
紅がゆれる。ゆれる度に気配が轟く。妖しく蠢く紅に引きつけられる。紅の上に立ち昇る煙があった。
(燃えて……いる?)
これは、まさか。
「ジュジュ、どこだ!」
自分を導いた白の獣を探す。近くにいるだろう獣に問わねばならないことがある。
ここはどこか。あれは何なのか。この場所が彼女の言っていた"全部が燃える夢"ではないのか。
「ジュジュ!」
無音の森に自分の声が空虚に木霊した。
痛む耳が、森と状況の異常さを物語る。何か不可思議な力が働いているのか。それともすっかり枯渇したのか。自分の真眼は頼りにできそうにない。
「おい、聞こえているのだろう!」
腹の底から出した声が響いて消える。再度、大声を出そうとして、痛む耳がささやかな音を拾った。
自然と足が動く。
ささやかな音を探して。
一歩、一歩と近づいていけば、音が大きくなる。
明確になってきた音は、近づく自分に正体を明かした。
(……泣き声)
頼りない泣き声の主は、近くにいる。
無心に声を追って、ぽっかりと開けた場所に出た。他のどの樹木よりも大きく古い木が、視界を埋める。
古木から泣き声が聞こえる。
明らかに子供のものと思える声が、古木から聞こえてきている。不可思議な場所に立つ古木は、泣き声すら出すのかと感心しそうになったが、すぐに勘違いだとわかった。
古木の根元に、大きな穴が空いている。
泣き声は、そこから聞こえてきているのだ。
大きな穴の中に誰かが潜んでいる。樹木の根元には子供の玩具がいくつか落ちていた。無造作に散らかされた積み木は、この声の主の物だろう。
「誰かいるのか」
穴から聞こえていた泣き声が止んだ。
「そこで何をしている」
「……だあれ?」
甘ったるい声がした。
あどけない口調と鼻に掛った声。穴に隠れ潜んでいる子供は、姿を見せずに聞いてきた。
「脅かしてすまない。……迷ってしまった。ここがどこか知っているか?」
極力、ゆっくりとしゃべった。
驚かさないようにと身を屈め、影に隠れている子供と視線が合うようにして待つ。
「なあ、ここにイタチは来なかったか?」
息を吸う気配がした。
「イタチ……」
「ああ。真っ白なイタチだ」
「お名前は?」
少しばかり悩む。
イタチの名前を聞いてくる子供というのもおかしいが、この質問だとそうなのだろう。
「ジュジュという。呼べばくると思うけれど、逸れてしまって……」
穴の中で、子供が「ジュジュ」と繰り返した。驚いたようにしてはいるが怯えてはいない。
ごそごそという音がして、穴の中から声の主が顔を出した。
心臓が止まるかと思った。
子供は小さな手で幹をしっかりとつかんでいる。半分だけ顔を出して、半分は幹の中に隠れて。
金がゆれた。
子供の束ねられた三つ編みが、幹の中でゆらゆらとゆれている。
薄い金糸のお下げは、背丈の半分くらいまであるだろうか。小さな額に、見覚えがある翠の髪留めが納まっている。鮮やかな翠に吸い寄せられている視線を、強引に下へと動かした。
そこにあったのは琥珀。
探し求めた色を持つ、幼き人。
不可思議な森の中、隠れ潜んでいた小さなサキが、目の前に姿をあらわした。