蒼天のかけら  第八章  因果の獄


青の奇跡


 腕の中にいるサキ。
 眠そうな目をしている彼女は、自分の様子にたいそう驚いていた。
「ローグ、どうしたのですか……?」
 強く抱き締めてかぶりを振った。困惑した風の気配が、そよそよと周囲を舞っている。

 自分を呼ぶ彼女が愛しい。
 肌に戻ったぬくもりが、か細いその声が、こんなにも愛おしい。

 額に口付けて、腕の力を強めた。
 彼女の存在を確かめていないと、どうにかなってしまいそうだった。されるがままであったサキが、自分の頬に手を伸ばしてきた。白く滑らかな手が頬に添えられる。
「ローグ。わたしいつ戻ってきたのでしょう。……また、夢でも見ていたのでしょうか」
 問いを繰り返す唇を、自分のそれで塞いだ。
 柔らかいぬくもりに酔う。
 いまは何も考えたくない。
 重ねた唇の感触と、わずかに漏れる呼気を求める。もっと深く味わおうとしたところで、焼けるような痛みに声を出した。
「……ジュジュ!」
 見れば右手に、くっきりと牙の跡が残されていた。
「何をしているの、ジュジュ! ……ああ、ごめんなさい。大丈夫ですか?」
 獣を叱ったサキが、右手に出来た傷口を押さえた。
「大丈夫だ」
「待っていてください。輝尚石を持ってきます」
「いい」
「でも」
「いいんだ。傍にいてくれ」
 腕から出て行きそうになる彼女を、引き止めて抱いた。しっかりと抱き止めて、背中に手を置く。絹の白装束の下から伝わる彼女の体温と、呼吸で上下する感覚を手の平で感じる。
「ローグ?」
 おずおずと聞いてくるサキのあたたかさを確かめている最中、白の獣と目が合った。そわそわと落ち着きなく尻尾を振っているジュジュは、自分に何かを促している。
 早く、早く。
 そんな気配を出しているジュジュの動きを見て、幼き彼女を思った。
 どうすればいいか。漠然と理解していた。
 躊躇いはない。
 何が起ころうとも、受け入れられる。

「サキ……。目を閉じて」
 激しく瞬いた彼女は、戸惑いを見せはしたものの、素直に従ってくれた。
 そっと瞼が下ろされる。
 少し強張っている彼女の顔を眺めてから、額を重ねた。
 真眼を通って、中にいた"サキ"がサキに入っていくのを視た。痙攣したように動いた身体をしっかりと支える。

 一つになる。

 ジュジュが言っていたのはこのことだ。
 "サキ"はサキと一つになった。分かたれていたそれが、一つに戻った。
 真眼から幼い人を受け入れたサキは、目を開いて硬直している。また時を固めてしまったかとも思える姿を、黙って見守る。
「あ……」
 腕の中で身を竦め、縮こまろうとする。
「っ……。何、これ……?」
「サキ」
 琥珀が縋るようにこちらを見る。
「ローグ、わたし……。わたし……!」
「大丈夫だここにいる。大丈夫だよ」
 いやいやと首を振るサキは、自分の中で起こっている変化を拒否しようとしている。
 荒く呼吸を乱して、涙を浮かべて苦しみ出した。
「怖い、怖い……。背中が痛い」
「サキ、しっかり」
「嫌だ。ローグ、助けて……、怖い!」
 あまりの取り乱し方に、ジュジュへ視線を向けた。
 白の獣は、苦しむ彼女を見つめているばかり。きつく目を瞑って、彼女の手をつかむ。離れぬよう握り、静かにその時を待つ。
 ぜいぜいと息をしている彼女の真眼が、また青く光を帯びた。

 風が吹く。
 彼女を中心とした風の渦が、狭い部屋の中で暴れ狂う。
 高く、彼女が悲鳴を出した。
 白装束の下から、青の裂け目が視えている。絹の装束が引き千切れたと同時に、青から力の塊が飛び出してきた。
 目の前で起こった一連の出来事。
 これこそが"青の奇跡"だと、そう思った。



 白の肌から、滑らかに生み出された二枚の羽。
 蝶を思わせる青の羽は、複雑な模様を持ち。強い力を放っている。



 力と風に飛ばされて、切れ端だけとなった白装束をまとう彼女は、涙をこぼし呻いている。暴風に解かれた金糸が、はらりはらりと肌に落ちた。
 幻想的な光景を両の目で見届けてから、白い頬を両手で掬った。
 茫と見上げてきたサキ。
 濡れた頬に口付けて、こぼれる涙を指先で拭う。
「ローグ……、わたし」
 言いかけてから、彼女の目が自分の後ろを見た。
 部屋の中で、真実を写し続けている鏡を見た彼女は、くしゃりと顔を歪めた。
「わたし、……人じゃない」
 絶望の色さえ浮かべて、サキは言う。

 人ではない。人はこんな羽を持たない。

 そうやって嘆く姿が、どうしてかこの上なく美しいと思えてしまった。
「サキ」
「お願い。見ないで……」
 自分を化け物だと悲嘆するサキの顔を、強引に上向かせた。
「いやあ……」
 真実を拒絶する彼女の頬を撫でる。
「どうして、泣く」
「だって、だって……」
「泣く必要はない。それともまだ苦しいのか?」
「違います。……ローグ、離して」
「断る」
 逃げようとする綺麗な蝶を寝床に張りつけた。うつぶせになって泣き続ける彼女の背に、口付けを落とす。
 びくりと震えたのも構わず、羽の根元を唇でなぞる。

「綺麗だ」

 白い肌は傷一つない。
 羽によって皮膚が裂かれてしまったかと案じたけれど。幻想的な光を放つ羽は、彼女に傷を作るものではなかったようだ。
 羽に触れようとして、手が通り抜けた様を見た。
 真力のようなものだろうか。そこに確かに在るが、決して触れられない。

「綺麗だよ……、サキ」

 唇で触れた肌は、絹よりもずっと滑らかで――。
 こんなにも美しい命に触れていられる。そう思うだけで心が震えた。
 手の平で、背中に散った金糸を集める。さらさらと肌の上を流れる後ろ髪を、手で梳いた。幾度が同じ仕草をしてから、涙に濡れるサキの頬へと手を伸ばす。
「ローグ。わたし何なのでしょう……?」
 心細さを滲ませて聞いてくるサキに、頬笑みを返す。
「さあな、俺にはわからない。けれど、一つだけわかったことがある」
 涙を湛える蜜の瞳に、自分が映っていた。
「サキが何者でも。例え人でなかったとしても……、この気持ちは変わらない」
 瞬いたサキの瞳から、蜜色の雫がこぼれて落ちる。

 自分は、ずっと間違えていた。
 彼女に言うべき言葉を。
 ふらふらと歩いて迷子になってしまう彼女に言うべき言葉は、たった一つだけだったというのに。



「離さない」



 大きく蜜色の瞳が開かれる。
 真綿の世界にいた幼い彼女と、同じようにびっくりしているサキは、やはりとても愛らしい。
「お前を離さない。……この羽を使って、飛んでいこうとしても無駄だ。どんなに遠くへ飛んでいったとしても、何度でも迎えに行く」
 離れるなと言うから上手くいかない。
 俺が離さなければいい。
 試練に巻き込まれて離れ離れになったとしても、こうやって迎えに行けばいい。
「何度でも、何度でもな……」
 開かれていた蜜の瞳が、瞼に覆われる。
 細い腕が自分の首に絡みついてきた。
 自分を求める彼女に安堵して。目を閉じ、唇を深く重ねた。



 青が収束した部屋で、二つの影が重なる。離れまいと強く抱きしめ合って眠る二人を、暗雲の隙間から星空が見守っている。
 数日ぶりに雨が止んだ夜は、試練を越えた雛達を静寂の綿で包む。
 やさしく、やさしく。決して傷つけたりはしないように――。

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