蒼天のかけら 第八章 因果の獄
解き放たれた命
朝の光が瞼を撫でる。
いけない、窓掛けを下ろし忘れていた。
もう少し、このぬくい眠りの中でうとうとしていたいのに……。
そそっかしいことをしてしまったと悔んでおく。あとちょっとだけと、掛け布の中に避難しようと試みる。そこで身体が自由に動かないことが判明した。
重い何かが、自分の動きを遮っている。
ううん……、重い。
嫌な感じはしないけれど、どうにもこうにも動きづらい。変だなと、往生際も悪く閉じっぱなしにしていた瞼を開いた。
自分が見たものを、そのまま信じることが難しい。
思わず自分の正気を疑い、そして目を疑った。信じられないというか、信じてはいけないとすら思える。
目の前には見慣れた人の、見慣れない寝顔。
規則正しく寝息を立てているローグの姿が、そこにあった。
夢を……見ているのだろうか?
自分にはもったいないくらいの端整な顔を持つ恋人が、目の前で眠っている。端整な顔立ちの人は、寝ている時すらも整っているのかと感心しそうになり、思考の逃避を自覚した。
逃げ出したがる思考を、ちょっと待ってと捕縛する。
捕まえた思考と、焼き切れそうな理性と一緒に、現状の把握に努めた。
眠るローグから腕が伸びている。重いと感じていた何かは、彼の腕だったのだ。左手は自分の首の下に、右手は身体の上を通って背中に流れ落ちている。
あたたかな体温にすっぽりと包まれている自分。そこまで把握して理性は離脱した。
残された思考は、単身で現実へと乗り込んだ。――と見せかけて、いきなり逃避した。
とにかく、逃げよう。
退避、退避と号令を出す思考に、身体が黙々と従う。
起こさないようそっと腕から抜けだして、寝床の上で姿勢を整えた。
これ以上、何も認識しなければ、まだ冷静でいられたことだろう。しかし、自分は思っていた以上に迂闊だった。
さらりと髪が落ちた。
あれ、と思って髪に触れる。添え髪を整えようとして、それが添え髪でないことを知ってしまう。
あたふたと右手を頭の天辺にやった。
帽子が……ない。
そのまま後頭部を両手でべたべたと触る。隠し布もない。それどころか三つ編みが解けている。
嘘だと否定したくて鏡を見た。
鏡を見て、激しく後悔した。
髪はやはり解かれている。まとめて隠していた後ろ髪は、完全に露出した状態となっていた。
……が、重要なのはそこではない。
首から上に血が集まる。首が頬が耳が、発火するように熱くなった。自分の姿を受け入れることが難しい。夜着姿を想定していた自分は、顎を落としそうなほど驚愕した。
何も、身にまとっていない。
正確に言えば、まとっている布地はあった。
ぼろぼろの白い衣装は腰布辺りにわだかまっている。腰から足はどうにか布で隠されている。問題は上半身だ。
端切れの布地がところどころに残っているだけで、肩も背中も……胸の辺りもやけに風通しがいい。半裸の自分を視認してから、眠っているローグに視線を落とした。
……この状態で、彼と同衾していたのか。
くらりと眩暈がした。血が頭に集中し過ぎて、のぼせてしまいそうだった。
と、とにかく。
早く着替えないと。彼はいまぐっすりと眠っている。
大丈夫、いまなら見られることはない。
茹であがった自分は、のそのそと動き、何とか寝床から脱出した。彼は掛け布を使っていない。足の方で仕事を放棄している掛け布を手に取り、身体にぐるぐると巻く。
間諜のように動き、目にも止まらぬ素早さで衣装棚から服を取り出す。それをしっかと抱えて、そろそろと歩き、彼が寝返りを打った瞬間に、脱兎の如く部屋から飛び出した。
衣服と髪を整えてから、炊事場で茫然としている。
朝一番で起きた出来事も一因であるけれど、大方は違うところにある。
どこか雑然とした居間。
すっかりしなびた野菜達。もうちょっとで出来上がる見込みだったスープは、底をつきそうなほど量を減らし。水洗い用の桶には、七つ分の茶器が浸けてある。
炊事場の端で立ったまま。あちらこちらに散らばっている記憶を、繋ぎ合わせようと苦心する。
見回りの高士達に連れられて、塔の中に閉じ込められて……。気がついたら家に帰ってきていた。
強く抱き締められたことは記憶に新しい。
そして――。
彼から大きな力を渡された。懐かしい力。泣きそうなくらいやさしい青。
解放された青は、とうとう形を作ってしまった。
自分はそれを怖いと思った。怖くて、恐ろしくて、自分のすべてが嫌で……泣いた。
「わたし、何なのでしょうか……」
大気に溶ける問い。
返らない答え。
(ねえ、わたしは……誰……?)
「サキ」
はっとしてそちらを見た。
ローグが、炊事場の入口に立っている。あんなにぐっすりと眠っていたのに、疲れが残っている黒を見た。
返事もできないまま、恋しい人の視線から目を逸らす。胸が苦しくて堪らないのに、逃げ道を塞ぐようにローグが近づいてくる。
後ろから抱き締められて、目を閉じた。
気配からは何も読み取れない。いつもなら周囲に湛えさせている真力が、感じられない。
「どうした……。また背中が痛むのか」
ふるふると首を振る。
背中はもう痛くない。二度とあの痛みは来ないだろう。
「ねえ、ローグ。夢ではないのですよね……」
胸の前で握っていた手に、彼の手の平が重ねられる。あたたかく骨ばった手の平の感触。
「そうだな。夢ではない」
「では、わたしは……」
言葉が続かなかった。
彼に何を確かめようというのか。ローグが答えを持っていることはない。
知っているのに、わかっているのに、自分の甘えが彼からの言葉を求めてしまう。
ローグはいま、何を思っているのだろう。
自分の恋人が人ではなかったのだ。正体をも知れない、他の何かだったのだ。
心を知りたい。
知るのが怖い。
知りたくて知りたくないのに傍には居たい。
重ねられた手の甲に、自分の左手を乗せた。不安で恋しい気持ちごと力を込めて縋りつく。
「サキは、サキだろう」
ローグは。
恋しい相棒は、いつも欲しい言葉を与えてくれる。
「不思議な羽を持っていたとしても、青い力を有していたとしても、サキであることに変わりない」
どうして彼の声は、ここまでやさしいのか。
どうして彼の腕は、ここまであたたかいのか。
たくさんの疑問を生み落として、こみ上げた感情を誤魔化した。
「離さないと言ったはずだ。一晩しか経っていないのに、もう迷子になったのか?」
くつくつと彼が喉で笑う。
低い響きが、背中越しに届いてくる。
幸せだと、心から思う。
「ところでサキ、一つ聞きたいことがある」
「はい、何でしょうか」
真上にいるローグへ顔を向けた。
ちょっと苦しい格好で見上げてみれば、いたずらっぽい笑顔の彼がいた。
「何人前、作る気だ?」
ぱちり、ぱちりと瞬きをして。どうにも照れ臭く、つい笑ってしまった。
楽しそうにしていても、ぐったりと疲労をただよわせているローグは、早々に長椅子へと退散した。
しばらくして部屋から出て来たジュジュも、何だかくったりと肩を落としている。
黒と白の元気を取り戻すべく、朝食の支度をはじめることにした。
よしやるぞと腕まくりして。まずは、戦いの前にしなびてしまった野菜達を丁重に埋葬し。それから、床下に控えていた援軍を呼ぶ。
ぐつぐつ、ことことと、おいしい音を奏でる鍋に前線をまかせ。彼らが完全に出来上がる前にと、食卓本陣へ足を運ぶ。
ふんふんと鼻歌を歌っている自分を、あたたかく見守る視線を感じた。照れ臭さと幸せに後押しされて、手がすいすいと動いてくれる。気分上々で食卓を拭いていると、薄暗さに気づいた。いつもと違う居間の様子に、首を傾げる。
窓掛けが下ろされたままである。
ぐったりと長椅子に沈んでいるローグは、窓掛けを上げられなかったようだ。
相棒の任務は、自分の任務。
彼が動けないならば責任持って成し遂げてみせよう。
そろそろと窓のところまで足を進め、窓掛けをざっと上げた。
まばゆい日の光が居間に満ちる。見上げた空は、抜けるような青。
どこまでも広く高い、奇跡の世界がそこにはある。
因果の獄は、解き放たれた。
広い世界に飛び出した、光り輝く命が一つ。
進む道が険しくとも、その輝きが尽きる時まで。
命は喜びの中、風に吹かれて舞い踊る。