蒼天のかけら 第九章 暗流の青史
流れる日々
昨日から引き続き、今日もいい天気だ。
洗濯したばかりの真導士のローブで身を包み。涼しい真術に囲まれながら、道を行く。
人影はない。
それもそのはずで、外出禁止令はいまだ布かれたまま。
でもまあ、これもオレに与えられた宿命だ。
というより医者としての本分だ。まるきり病人だった友人をずっと放っておいてはおけない。
うん、まあそんなところだ。
叱られようが罰を与えられようが。こればかりは譲れないものだから、懲罰房覚悟で家を出てきた。
家を出ようとした時。たまたま部屋から顔を覗かせた相棒に「見つかっても知らないわよ」と、あたたかな励ましを頂戴したけど。やっぱりどうしても気になってしまう。
損な性分だと思うけど、放っておくよりずっといいさ。
内心びくびくとしているのを隠して、堂々と見えるように道を歩く。
「いい天気だな」
後方から飛んできた挨拶。
わかっていたけど、見逃してはもらえなかったなと苦笑いを出した。
「キクリ正師、見回りですか」
「そんなところだ。……さて、ヤクス。お前はどこに行くつもりだ?」
「ローグの様子を見に」
「慧師からのお言葉を、忘れたわけではあるまい」
困った奴だと笑うキクリ正師から、問い詰めてくる感じは受けなかった。
だから素直に白状することにした。
「そこまで呆けてはいないけど、気にするなというのも無理ですよ。病人を見過ごすことはできないんで……」
「医者の鏡だな」
距離を縮めてきた正師は、行くぞと言って肩を一つ叩いた。
同伴してくれるらしい。
よかったと胸を撫で下ろそうとしてから、ありゃおかしいと気がついた。
「もしかして、正師も気になってたんじゃないですか……?」
あの時の慧師の発言からして。オレ達だけじゃなく、正師達も近づいちゃまずいんじゃないのかな。
そう思って問いかけた相手は、ちょっと情けない形の眉毛を作ってから、また笑う。
「気にするなというのが無理だ」
朗らかな答えを聞き。正師と一緒なら懲罰房でもいいかと思い、同じように笑顔を浮かべた。
ひっそりと佇んでいる友人宅。
いつもと変わらない風にも見える。
しかし、先日起きた悲劇。そして、そこから派生した奇跡は、強く記憶に刻まれている。
知らず、往診用の鞄を持つ手に力が入った。
緊張しているオレの横には年若い正師。
キクリ正師は落ち着いている様子だ。これにはさすがとしか言いようがない。いまばかりは"共鳴"を望んでしまう弱気な心を叱咤して、友人宅の扉の前に立つ。
つい気になり、あるはずの小さな塚を見つけようとして、目を瞠った。
明らかに掘り返された跡がある。無造作に放り捨てられた木の板だけを残し、安息の場所が荒らされている。
扉を見据えた。
手に拳を作り、一つ深呼吸をする。
期待を込め三回ほど扉を叩き、友を呼ぶ。
「いるか?」
すると家の中から足音がした。
徐々に近づいてくる、小さな足音。
期待が最高潮に達した時。扉が軽やかに開かれ、風がすっと通り抜けていった。
「いらっしゃい、ヤクスさん」
日の光に照らされて。
柔らかな笑顔の友人が、姿をあらわした。
細い声で遠慮がちに。それでも歓迎の雰囲気をありありと出しているサキちゃん。彼女は途切れた日常すらも感じさせず、いつも通りの気配をまとってそこに立っている。
ぐっとこみ上げてきたものを、瞬きの回数を増やすことで無理やり塞いだ。
「サキちゃん……」
言葉が続かない。感動のただ中に突っ立ているオレを、彼女は静かに見つめ返してきた。
まるで不思議なものを見るような目で。どうしたんだろうと小首を傾げて――。
「おはよう」
「あ、キクリ正師。おはようございます」
不思議そうな顔のまま、正師に挨拶をして、また反対側に首を傾げた。
「正師、もしかして実習の連絡ですか?」
正師が笑った。
快活な笑い声は、常と変わらないように聞こえた。
少なくとも彼女にはそう聞こえているだろう。でもオレの耳には、数多の感情が複雑に響いているように聞こえた。
「サキっ!」
笑い声を乗り越えて、鋭い声が飛んできた。
振り向いた彼女の視線を追う。
夏の日差しに慣れた目では、部屋の影がよく窺えない。だからローグが、闇から唐突に浮かび上がってきたかのように見えて、ついびくりとした。
「ああ、駄目です! 寝ていてください」
小走りで戻っていった彼女の背中を見送る。
視線を感じてキクリ正師を見返す。先ほどの笑顔はどこへいったのか。表情を改めた正師が、何も言わず肯いた。
同じように無言で肯きを返し、友人宅に足を踏み入れる。
先日までは雑然としていた友人宅は、きっちりと整えられていた。彼女の手によって整えられただろう場所は、気やすさと居心地のよさを強く感じる。
「何用ですか……」
ぴりりとした声が、真横から飛んできた。
弱々しい声には矢のような尖りが潜んでいて、どうにも不穏な印象を受けた。
長椅子に、腰かけているのも辛そうなローグがいた。
土気色とまではいかないけれど顔色が暗い。立ち上がろうとして上手くいかなかったのか。半端な恰好でこちらを見据えている。
その横には、心配そうな顔をしたサキちゃんがいた。彼女の肩の上にはローグの手が乗っている。手の甲に筋が浮かんでいるのを見て、ローグが必死になって彼女を守ろうとしているのだと理解した。
何からと問うまでもない。
正師から。
"真導士の里"から彼女を守るべく、なけなしの力を振り絞っている。
胸に影色の何かがよぎった。いつかどこかで感じた予感が、再びこの身に返ってきてしまう。
相棒がおかしいと、彼女も気づいたらしい。
ローグを見て、こちらを見て、眉を曇らせ思案している。
「……話が違うのでは?」
話? と小さく復唱したサキちゃんは、ますます不安を募らせて困惑している。
「まあ落ち着けよ。オレが頼んだんだ。外出禁止令が出ているから、オレだけじゃ出てこれなかったんだって」
嘘も方便、かな。
いまのこいつにはキクリ正師すらも敵だと思えるらしい。無理もないけど、あまり興奮させるのはまずい。
すっかり病人の様相を呈している友の前に進み、鞄を下ろした。
「ほれ、寝ろ。診察してやりに来たんだ」
はっと我に返ったサキちゃんが、横になるよう促している。
ローグは従わず、彼女を背に庇おうと動き出した。
促されても立ち上がろうとしたローグ。
彼女は相棒の不可思議な様子に、一瞬だけ目を見開いて時を止めた。
だけど、それは本当に一瞬だけのことだった。
一呼吸の間にきりりと表情を引き締めた彼女は、ローグの袖を強く引き「寝ていてください!」と命じた。見たこともないような険しい表情と、きんと響く声を受け、ローグと一緒になって肩を竦める。
強く言われて渋々と横になったローグを見て、ふっと息を出す。
いまのローグを宥める自信はまったくない。猛獣使いが帰ってきてくれたことを心から喜んだ。
猛獣を抑えた友人に、何か必要なものはあるかと聞かれたので、湯だけ沸かしておいてくれとお願いした。
サキちゃんは軽やかな返事を一つだけ出し。キクリ正師に席を勧めてから、ぱたぱたと炊事場に駆け込んでいく。猛獣使いの姿が、すっかり消えたのを見計らって小声で言う。
「目を覚ましたんだな」
返事はない。
だけど、しかめていた眉が少しだけ緩んだのを、両の目で確認した。
途切れていた時間は、何のためらいも見せずに流れ出した。ちぎれかけていた毎日が、しかと繋がっているのを確かめて鞄を開く。
鞄の金具から跳ね返ってきた日差し。
強く差し込んだ一条の光に、つい目を細めた。