蒼天のかけら 第九章 暗流の青史
暗転
ヤクスがきてくれた。
密かな望みが叶ったのだ。さすがは女神パルシュナである。
自分の心の声を聞き、長身の友人に願いを送り届けてくれたのだろう。
さらに言えば、キクリ正師まできてくれた。
これは願ってもいないことだった。
何せローグの真力が枯渇したままなのだ。真力は、一晩しっかりと休めば元に戻る。そう言われている。
それなのに、ローグの真力はちっとも回復しない。二日丸々眠っていたのに半分も戻っていないのだ。これは異常事態である。
体調の悪さが影響しているのかとも思えたけれど、自分の知識では断定できなかった。正師ならば何か助言をくれるだろう。
体調が悪いせいか。もしくは真力が枯渇しているためか。今日のローグは機嫌が悪いようだ。
彼の先ほどの態度については後で謝っておこう。
湯を沸かすついでに、来客へ茶を出す準備をする。居間へと戻り、まずはキクリ正師に茶を出した。簡単な礼を伝えてきた正師をこっそりと窺う。
……うむ、怒ってはいなさそうである。
胸を撫で下ろして、診察中のヤクスに声をかける。ちょくちょくと家に訪れる長身の友人には、指定席が出来上がりつつある。長椅子に最も近い場所。食卓のその一角に茶を置いた。
「ヤクスさん、どうでしょうか?」
無言で診察していたヤクスは、振り向いてにっこりと笑う。
「風邪ではないね。疲れが抜けてないみたいだ。食欲の方は……?」
「きちんと食べています。いつもより量は少ないですけれど」
「そっか。でも食えてるなら大丈夫」
ふうと息を吐いた。
ローグまで原因不明の病になってしまったら、どうしようかと思っていたのだ。自分もやっと、眠りの病が治ったところだ。うちだけ、また別の病に魅入られては堪らない。
「といっても……。真力は回復していないなー」
機嫌悪そうな黒が、ヤクスを見た。
文句でもあるかと言いたげである。
「そうなのです……。早めに休んでいるのに、全然戻らなくて」
「サキちゃんに隠れて、夜更かしでもしてたんじゃないのか?」
「……誰がするか」
むすっとした声がヤクスに抗議する。いつもと同じような口調であっても、覇気が薄い。
「夜更かしはしていません。夕飯の後、そのまま寝床に入って、あっと言う間に眠ってしまいましたから」
右手を頬に当てて、ついつい深く溜息を出した。
本当にローグはどうしてしまったのだろう?
彼ほどの真力量だと回復にも時間がかかるのだろうか。座学で習ったことを確認しようと思いつき、奇妙な顔をしているキクリ正師と目が合った。
「サキよ、それは確かか?」
何となく裏がありそうな問いだと思った。
「……え、ええ。確かです」
変なものを含んでいる問いに対して、それでも正しく返答した。
引っ掛かりがあるので、返答に少しだけ迷いが混じる。キクリ正師と見つめ合うことしばらく。ヤクスが突然咳払いをした。演技がかっていて、ひどく不自然な行為である。
「あー、その。もしかして長椅子で寝ていたとかかな……」
もごもごと言ったヤクスは、それじゃ疲れも取れないよねと一人納得をしている。
「いいえ? 長椅子で寝てはいませんよ」
そんなこと、させるわけないでしょうと言ってしまってから、はたと気がついた。
咄嗟に唇を押さえる。けれどもう遅い。外に出してしまった言葉は戻らない。もはや正師の瞳を見ることができず、唇を押さえたまま床に視線を落とした。
居間に落ちた静穏の中、ヤクスが鞄から物を取り出す音だけが響く。
「仲のいいことは素晴らしい」
大仰に語り出した正師。
真剣な声音の中に、からかいの色が混じっている。
「素晴らしいのだが、あまり男の部屋に長居をしてはならんぞ。看病目的とは言え、お前は娘の身なのだ」
「……はい」
ようよう絞り出した返事。そこにある嘘だけは絶対に知られたくないと思った。
言えない。
ローグの部屋ではなく自分の部屋にいたのだ。
そして……その先のことは尚更伝えられないと、固く口を噤むことにした。
床の木目を撫でていた視線を動かし、ちらりとそちらを見てみれば、長椅子の上で背中を向けている恋人がいた。
黙して語らずを貫くつもりらしい。
ずるいとも思ったが、迂闊なことをしたのは自分だ。責めるに責められず。この手で撒いた羞恥がむくむくと大きく育つのを、黙って見守ることにした。
「ところでサキちゃん」
「は、はい。……何でしょうか」
「サキちゃんの体調はどう?」
窮地を救ってくれた友人に感謝をしつつ、質問の意味を考える。
「わたしの体調ですか。普通ですよ。もう、ちっとも眠くありませんし……」
「そうかー。夏は食事とかに気をつけてね。井戸水もそろそろやめておいた方がいいよ」
「わたしは飲みませんから。やっぱり一度湯にするべきでしょうか」
「できればね。……他のところは」
他?
ヤクスは何を聞きたいのだろうか。
「いえ、特に」
「そう。……そうか」
何だか曖昧な気配だ。もやもやと悩んでいる時、視界の端でローグが起き上がった。
彼はヤクスを見る。そしてヤクスは彼をじっと見返している。
背中がそわりとした。
感じたことがない、奇妙な感覚が意識を支配する。
身体が浮いた感じがした。もちろん錯覚だ。眩暈とは違うが、変なのだ。
「サキよ」
「……っ、はい」
急に元いた場所に戻された。頭がくらりとしたけれど、ゆっくりと瞬きをしたらどうにか治った。
「掛けなさい。少し話を聞かせて欲しいのだ。先日の一件だがな……」
寄せて返る荒波の中、不吉な影が視えた。影が拡大するにつれ背中の震えもひどくなる。
「お前を任務へ連れ出した者について聞きたい」
「正師、それが……」
熱い真力が激しく波打つ。その動きに包まれながら自分の中にある真実を語る。
「――覚えていない?」
こくりと肯いた。
肯くよりほかに、するべきことがなかったのだ。
「ちゃんと覚えていたように……思うのですが」
いまでは思い出そうとしても何も思い出せない。靄がかかるという言葉は適切でなかった。完全に切り取られ、消え失せてしまっている。
あの日の朝。
朝食を終えて、炊事場へと食器を片づけていた。
食べ終えた途端に長椅子へと移動し、沈むように腰かけたローグが何か聞きたそうにしていたのを覚えている。そこは確かに記憶していた。
「――サキ」
重く閉じていた口が自分を呼んだ。
「何でしょう」
「誰がお前を連れて行った。名前は……、顔は覚えているか?」
彼の問いに答えようとした。
自分に中にある真実を伝えようとした。しかし、それは叶わなかったのだ。
気がついた時には彼の腕の中にいた。目を覚ました自分が見たのは、青ざめた顔で名を呼び続けるローグの姿。
「真術の気配はしたか」
キクリ正師の言葉に、肯定を示した。
「何も思い出せません。家で食事の支度をしていたのです。スープが出来上がりそうだったので、次の料理を作ろうとして……。ふと気づいたら高士の方と歩いていました」
雨の中、足元の具合を確かめ。ゆっくりゆっくり歩いている最中だった。
塔に向かっているのだと自分は知っていた。
それが任務であることも、浮かない気分を抱えていたのも覚えている。
「任務に随行した高士は覚えているのか」
「ええ」
人相を伝えれば、キクリ正師が人差指でこめかみを押さえて目を瞑った。
「確かに任務に随行した高士だ。だがな、その者はお前を引き渡されたと言っている」
「嘘を言っているってことは」
正師はヤクスの質問に、それはないと断じた。
「慧師の下問があった。慧師の前で嘘はつけぬと座学で教えただろう」
慧師は里にいるすべての真導士を束ねている。
数が限られていると言っても、里には多数の真導士が在籍している。そのすべてを束ねるため。そして絶対的な存在として君臨するため、どの里の慧師にも特別な真術が伝えられているのだ。
慧師のみが知ることを許された真術――これを禁術と呼ぶ。
「下問がある際には、必ず禁術が用いられるからな。嘘をつくことは不可能だ」
「じゃあ、随行した高士以外の誰かが……」
「帰ってくれ」
はっとして彼を見た。
長椅子に座り、額を右手で抑えているローグ。
予感に呼ばれるまま駆け寄った。頭痛でもするのか。額を抑え、辛そうに眉をしかめている。左手はズボンを握っていた。力任せに握り込まれている布地は、深く、くっきりとしわを刻んでいる。
「……もう、たくさんだ」
「ローグ、落ちついてください」
「帰れよ!!」
大声を間近で出されて、身体が跳ねた。
気配が荒い。
いつになく態度が固く、表情も険しい。
機嫌が悪いと一言で片づけられない相棒の有様を見て、手の平にじわりと汗が浮いた。