蒼天のかけら  第九章  暗流の青史


欺罔


 夜に染まった大気。
 あんなにもまばゆかった白は、かなり前に霧散したきり。
 呆気ないと、心で思った。

 夜に紛れてきた"来訪者"の気配は、どこからもしていない。
 終わったのだ。
 そう思いたい。思いたいのに、二人ともまだ確信が持てずにいる。
 真眼を閉じて、息をひそめて。
 それだけで本当にやり過ごせたのか? 自分達の中で答えはとっくに出ていた。

 彼が動く。
 身体を囲っていた腕が離れた。物音を立てぬようゆっくりと立った彼は、動くなと手で制してから自室へと歩いていく。
 彼の部屋の窓は閉じたまま。昨日も今日も、あちらの部屋は使っていないから、確認しにいったとは思いづらい。
 しばらくして戻ってきた彼の手には、一つの皮袋。
 使い込まれた感のある茶色の袋に、しっかりとした紐が通っている。
「どうしたのです」
「用意していたんだ。大荷物だと動きが取れないから、最低限になってしまった。でも、これだけあれば間に合うはず」
 皮袋の口を確認しているローグの袖を引いた。
「これは……?」
 黒の中で影と光が揺れる。
 病んでいる色をそのままに。強い意志だけが眼差しに乗って飛んできた。

「サガノトスから出よう」
「え?」
「里を抜ける。今回のことでよくわかった。うかうかしていたら俺達の命が危ない。一旦ここから出て、どこかで落ち着こう」
「ローグ!?」
 驚いて声を上げたら口を覆われた。
 静かにと言い、周囲の気配を探るようにしている。
「待ってください。早まってはいけません」
「考えてのことだ。サガノトスには怪しい奴らが多すぎる。全員が悪人とは俺だって思っていない。だからと言って、何の対策もせずに巻き込まれるのを待つ。……そんな馬鹿馬鹿しい真似はできない」
「では正師達に相談しましょう。慧師だってきっと――」
 説得しようと知恵を絞る。
 対する相棒はわずかな逡巡を見せた。黒の中で炎がちらついている。それだけは思い留まらせようと言葉の限りを尽くす。

 里を抜けたら絶対に追われる。
 この件に関して、里が容赦をすることはない。慧師が里を囲っている真円。一歩でも踏み出した真導士は"里抜け"したとみなされ、厳正な処罰が下る。
 最初の座学で、いの一番に教わった事柄。

「せめて"転送の陣"で聖都に」
「それは駄目だ。聖都に繋がる陣は、閉じられてしまっている。慧師の真円を抜けるしか方法がない」
「お願いです。それだけは……、それだけは考え直してください」
「どうした。処罰を恐れているのか? そんな下らないことは気にせずともいい。襲撃を受けたのだと言えば、酌量くらいはしてくれるだろう。今回ばかりは譲らないからな。嫌だと言っても連れて行く」
 お願いだ。考え直してくれと繰り返しても、聞き入れてもらえない。瞳の中で影と炎が争っている。激しくなるばかりの抗争と膨らみ続ける予感。こめかみから汗が落ちた。
 しゃべり続ける自分に焦れたのか、両肩に手が置かれた。
 辛くなった大気に驚き、黒を見る。
「あとな。もう一つ、言っていなかったことがある」
「何ですか」
 一度だけ固く結ばれた唇が、覚悟を決めたように開かれる。

「"青の奇跡"が、ばれてしまった」

 背中が動いた。
「あの力が露見してしまった。ヤクス達なら大丈夫だ。驚いていたけれど、態度を変えるほどでもなかったようだ。でもな――」
 心臓がうるさい。
「慧師達にも知られている」
 彼の言葉に集中したいのに、大きく喚いて邪魔をする。
「今夜を凌げば、助かる可能性が高い。とにかく外に出なければいい。今夜だけだったらどうにかなるさ。でも、明日の保障はどこにもない。……明日、俺達が一緒にいられる保障がない」
 肩に置かれた手から、ローグの焦りを感じる。
「保護だの警護だの言えば、耳障りがいい。けれど実際にどのような扱いをされるか、想像がつかない。慧師と正師達を信じたいというサキの気持ちもわかる。でもいまは俺についてきてくれ。せめて、見極められるだけの時間を稼いで……、確かに安全だと思えたら、里に戻ってくるんだ。あいにくと俺達には希少な力がある。里だって手放すのが惜しいだろう。上手く交渉すれば、身の安全を買うことだってできるさ。あいつらともまた会える日が来る」

 扉から音が出た。
 出そうとしていた反論を飲み込み、扉を注視する。
 沈黙を守っていれば、また二度ほど固い音がした。扉を叩いているように聞こえる。
「サキ、部屋へ」
「自分だけで戦う気ですか?」
 小声での問いかけに、苦笑が返る。
「違う。奴らの狙いはサキだ。俺が出たところで何にもならん。いいと言うまで部屋から出るな。応対ついでに外の様子を見てくる。……隙を見て、二人で逃げるぞ」
 背中を押され、さあ早くと促されて、重い足取りのまま自室へと戻る。
 扉を閉める前にローグを見た。
 安心させるように頷いて、扉を閉めろと口を動かしている。同じように頷こうとして、半端な形で終わる。
 自室を閉め切った自分は、すぐさま扉に耳を貼りつけた。異変があったらすぐに動けるよう、万全の体制で聞き耳を立てる。しんと静まった居間から、ローグの声がした。
「誰だ」
 低い声が覇気を帯びた。
 真眼が開かれたのだろう。扉の向こうから海の真力を感じる。
 乾いた口内を潤そうと、唾を飲み込む。
 手に汗を握ったその瞬間、家の外から応答がきた。予想外の相手の声に驚き、音を立てそうになってしまった。目を見開いたまま、体勢だけはどうにか立て直した。
「開けなさい。無事を確認しに来たのだ」
「キクリ正師?」
 やはりローグも驚いたようだ。声がひっくり返りそうになっている。
「何故……」
「ちょうど見回りで近くまできていた。そうしたらこちらから真術の気配がしてな。二人とも無事か」
「ええ」
「そうか。状況を詳しく聞きたいのだが、扉を開けなさい」
 背中が騒いだ。ふるふると骨の下が震えている。
 どこからか風の音がしてくる。
「……どうした?」
 ローグの声が途切れた。
 遠くから耳鳴りが、きた。
「ご自分で開けられたらいかがです? 本物の正師なら扉を開けられるはずだ」
 沈黙――そして。
「私を疑っているのか。どうしたというのだ、お前らしくもない」
 扉の向こうで海の真力がうねる。
「……わかった。襲撃で気力が乱れたようだな。導士とはいえ真導士だ。気力を保つよう心がけなさい」
 キクリ正師らしい台詞が聞こえる。とても……それらしい言葉。
 外で真力が放たれる。
 無意識に身を竦ませていた自分は、そこで呆然とした。この気配は、キクリ正師の真力そのものではないか?

「これでどうだ」
 声が先ほどよりも鮮明になった。扉が開けられたのだ。
「何という顔をしているのだ、ローグレストよ。そこまで驚くことではあるまい」
「……ええ」
 ローグの警戒は解かれていない。自分もまた、同じように警戒を解けないでいる。
「これで話がしやすくなったな。ところでサキはどうした?」
「サキは、寝ています。あれから体調が不安定で……」
「ああ、やはりか。それも仕方あるまいな。事が事だったのだ。では、すまぬが少しきてくれないか」
「何でしょう……?」
「先ほどの者達の追跡をしたい。まだ遠くには行っていない。……気配は覚えているな」
「はい」
 腕の中でジュジュが動いた。
 すとんと床に下りたかわいい子が、自分の行く道を先導する。白いふわふわの尾が、ぴんと立てられている。
 正師とローグの気配が遠ざかり、扉が閉まる音がした。
 その音を聞いてから、こっそりと自室の扉を開いた。居間に戻り、皮袋を抱える。
 結論は何にしろ必要な物である。
 足音を立てぬよう神経を注ぎ、彼の部屋の扉を開く。
 よく手入れがされている部屋の中、机の上だけが雑多な風になっている。書きつけられた紙と、積み上げられている書物と、インク壷。壷にだけはきっちり蓋がされていて。そんなところがローグらしいと、笑みをこぼした。
 そろそろと進み、窓のところまできた。
 出窓のへりは、ちょうど自分の腰くらいである。この高さなら乗り越えられる。はしたない格好だけれど、誰に見られるでもない。片膝をひょいと乗せ、窓に両手を添える。へりの上に乗ったジュジュは、しきりに小さな鼻を動かしている。気配を消した相手だとしても、獣の鼻はそうそう誤魔化せはしまい。
 真眼は閉じたまま、勘に頼って彼を追う。

 そして、その時はすぐにやってきた。

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