蒼天のかけら 第九章 暗流の青史
花壇と花束
こんにちは。
お久しぶりです。
それだけ言って、言葉が出てこなくなった。
あと残されているのは天気の話くらいだろうか。
自分はそもそも口が回らない性分。そのためなのか、女神はとんでもない試練を設けてくださったようだ。
姿なら学舎で見かけていたし、サガノトスの中でも何度か見かけていた。
しかし、会って話す機会はなかった。
自分の受け持ちはキクリ正師である。時折、ムイ正師と交代することもあった。でも、"三の鐘の部"を受け持っているこの正師とは、接点がないに等しい。
胃がきゅっと縮小した感じがしている。
手先もちょっとばかり冷たくなったようだ。
選定の時の記憶が、まざまざとよみがえる。サガノトスにきて以降、"落ちこぼれ"と蔑まれる要因を作り出したのは、間違いなくこの正師だと言えた。
夢の中と変わらぬ様子で咲く白いマーディエル。青銀の真導士の瞳で輝く、幻の光と近しい色をした華奢な花が、風に弄ばれてふるふると震えている。
その動きと合わせるかのように、初老の正師の右手に収まっている藍の花がゆるくゆれ。花弁が一枚、ひらりと落ちていった。
周囲には、建物どころか人が訪ねてきそうな場所ない。朽ちはじめたこの花壇以外に、人の手が入っていそうな場所がないのだ。それなのに、ナナバ正師はマーディエルの花壇を訪ねてきた。
一抱えの花束を持って。
何を意味しているのか。
答えがふっと落ちてきそうに感じた。しかし、その答えを自分の意思で掻き消すことにした。
知りたくない。
正しい答えは、きっと悲しい形をしていることだろう。鋭敏に感じ取って現実から目を逸らす。
驚愕の表情で固まっていたナナバ正師は、自分が目を逸らしたのと同時に、荒れた気配を収めた。
静かに落ちた、緑の風の時間。
命あふれる大気の中、どちらも言葉を続けられずにいる。
草を踏む音が聞こえた。
視線はマーディエルに向けたまま、静かにそれを聞いていた。近くで止まった足音と、小さな衣擦れの音。
自分の左隣に立ったナナバ正師は、何も言わず花束を花壇の端に置く。
白の世界に、藍色の彩りが加わった。
「……ここで何をしておる」
しゃがれた声が聞く。
サキは冷たい指先に力を入れ、迷いましたと小さく答えた。
その時。
緑の世界が切り替わっていった。
同じような季節、同じ場所。
花壇中に咲いていたマーディエルの半分が、姿を消した。手前で咲いていた花だけを残し、後は土に戻ってしまった。
咄嗟に息を吸った。
吸えたことに、愕然とした。
愕然とした自分を置いてけぼりにして、世界は勝手に進む。
左隣には、先ほどと同じようにナナバ正師の気配がしている。
でも、サキの右隣に娘がいる。
花に手を伸べて、愛おしそうに撫でている娘。薄い金の添え髪が、動くたびにちらちらと揺れる。
(――ナナバ正師。今度も失敗しちゃいました)
夢の中で聞いた声。あの娘の声。
(そうか。上手くいっているように見えたが)
しゃがれた声の返答には、幾重にもやさしさが編みこまれている。
(今度こそって……思ったんだけどなあ)
残念そうな台詞を笑い声が包んだ。
ナナバ正師が笑ったのだ。聞き間違いかと思ってしまった。
(よい、よい。そうやって幾度も考え、行動を起こすことが肝要。きっとお前はいい真導士になれる)
娘が正師を振り仰ぐ。
自分の真横で。
顔を見ようとしたけれど、これも意思の力で押し潰した。動いたら全部が終わると自分は知っている。
(本当ですか? 真力が低い真導士でも?)
期待と不安とで味付けされた声は、どこまでも娘らしいものだ。
明るく跳ねて、ゆるやかに流れていく。
(無論)
強い断言がなされる。
何故か、つきりと胸が痛んだ。
(燠火じゃなくても……。わたしみたいな天水でも?)
(当然だ。私の前でそれを言うか)
不安がる娘をしゃがれた笑い声が慰撫している。ナナバ正師が、導士とこんな風に語らっている場面は、見たことがなかった。
キクリ正師なら納得できる。でも、ナナバ正師なのだ。
(……よかった)
うれしそうな声が歪む。
また娘が何かを話しはじめたけれど、声がどんどん歪んで遠ざかっていく。
瞬きを一つしたら、花壇中に咲き誇るマーディエルがあった。
終幕だと理解した。
戻ってきた緑の大気は、夢に入り込む前と同じで静かなままだ。明るく笑う娘の声は、もうしない。
「里を下りる気にはなったのか」
沈黙を破った声には、もはや一片のやさしさもなかった。
その事実に、痛んだばかりの場所がせつなく疼いたように思えた。
「いいえ」
「真力低き者が、里におってもいい結果を生まぬ」
夢と真逆の言葉を、辛い気持ちで受け取った。
「……それは里にとってという意味ですか?」
問い返しがくると思っていなかったのか、ナナバ正師が黙り込んだ。
「里にとってという意味でしたら、やっぱりわたしは下りません。相棒にとってという意味でしたら……」
強く視線を感じた。
初老の正師から感情らしきものが漏れ出てきた。種類はわからないが、紛れもなく感情と呼べる気配だ。
「それは違うとお答えします」
「不可思議な力にのぼせ、己の価値を見誤っておらぬか」
意地の悪い言葉をしっかりと否定する。
「この力がなくても答えは同じです。うちの相棒も同じことを言います」
何をと言いかけて、言葉の先を飲み込んだ正師。
意を決して立ち上がり、その正師の顔を真正面から見た。
灰色と目を合わせる。
蛇のように鋭いと恐れていた瞳は、以前見た時と同じ色。けれども今度は怖くなかった。
「死ぬような目に遭ったろう」
「真導士として生きていくなら、いくらでもあるのではないでしょうか」
苦い感情に触れる。
思えば、初めて会ったバトも似たような感情を示していた。
二人が共有している"何か"は、白のマーディエルに由来している。
たぶん、そうなのだろう。
「帰るがいい。……もう、ここには来るでないぞ」
左に旋回する白い円が、大地に描かれる。
真術が発動する寸前に見た灰色の瞳には、淡く淡く幻の光が滲んでいた。