蒼天のかけら 第九章 暗流の青史
幻の光
「……バトさん。今日は何の任務だったのですか?」
青銀の真導士のローブから異臭がしている。
汗の匂いではない。返り血がついているのでもない。……何と言うか、香辛料を売っている店の匂いがする。
今日は香辛料の倉庫が任務地だったのか。
洗っても簡単には取れなさそうだ。
「任務内容を聞くな」
言いながらお酒を飲みはじめたバトは、捨ててもかまわんと伝えてきた。
金銭感覚がずれたこの人は、もったいないと思う気持ちが失われている。ところが自分はその真逆。まだ使えるのにもったいなくて捨てられない。むむうとしばらくローブを見つめて、洗うまでは水につけておくことにした。
バトの家で軟禁状態が続いている自分は、家事の一切を任せてもらった。
暇だったのだ。
暇で暇で、くたびれてしまったのだ。読んでおけと真術書を渡されたけれど、小さな文字と難解な言い回しのせいで一頁も読めなかった。暇よりはいいかとがんばってみたのだが、どうしたって無理であった。
本は苦手。
でも暇はもっと苦手。
お願いだから仕事をくれと懇願したら、ようやく家事をする許可が出た。
懇願した次の日には、家事を行うに十分な物品が与えられた。家事がしづらいと訴えていたこともあり、導士のローブまでついてきていた。
言ってみるものである。
少しだけ物が増えた炊事場で、桶を用意し水を注いでいく。
「バトさんって、ちゃんと休んでいるのですか」
毎日、毎日任務に出ている。体調が崩れたらどうするつもりだろう。指摘するまで、この家には熱さましの一つすら備蓄されていなかった。
「どうだったか」
はぐらかされてしまった。
バトは基本的に意地悪なので、何を聞いてもこうやって煙に巻く。秘密主義にもほどがある。
「新しいローブを出しますか」
「いや、今夜はもう終わりだ」
ふむ。
なら朝食の後にローブを出せばいい。自分の仕事も終わりでよさそうだ。
軟禁生活も堂に入ってきた。
バトとの生活は意外なほど快適なものである。ほとんど放っておかれているから、気兼ねしなくてもいいし、欲しいものは与えられている。見回り部隊が訪ねてきて以降、誰一人やってくる気配もなく、波乱ばかりだった日々が遠くなったように思えている。
平穏な毎日。
……でも、寂しい。
彼はいまごろどうしているだろう。夕飯は食べているだろうか。
ジュジュの世話で困っているのではないか。
はあと息を吐いた。
桶から手を引き上げ、居間に戻ろうと振り返ってから、ぎょっとする。
「何を呆けている」
炊事場の入り口にバトがいた。空のグラスを持ってきているから、氷を欲しているようだ。
声を掛けられていたのだろう。まったく気づかなかった。
すみませんと伝え、氷を取り出す。そういえば氷砕針は棚に戻してしまっていた。棚の扉を開けて取ろうと手を上げる。
あわてていた自分は、いつになくそそっかしい事態を招くことになる。
それに気がつき、あっと叫ぶ。
ボトルが落ちる。
避け切れない衝撃を予期して反射的に顔をかばい、逃れようとしゃがんで目を閉じた。
途端、あたたかさに包まれる。
ぐっと引き寄せられ、上から守られた。
ボトルが盛大な音を立てて割れる。液体が飛び散り、服を塗らした。
「馬鹿者」
「……ごめんなさい」
やってしまったと、自分の迂闊さを悔いた。
見やれば、割れてしまったボトルと、びっしょりと濡れた床。よりによって高そうなボトルだ。これも慧師から貰ったお酒だったらどうしよう。
たらたらと冷や汗を流して、バトの顔色を窺う。
「バトさん?」
ところが青銀の真導士は、目を見開いて時を止めている。
息をしているかどうかも怪しいほど、完全に硬直してしまったバトは、呼ばれていることも気づいていなさそうだ。
何をそんなにと訝しがり、自分の姿を確認した。酒を被ってしまったローブは、赤に染まっている。
……ああ、これはひどい。洗い物が増えてしまった。真導士のローブは、汚れに強いから洗えば落ちる。そう知っていても後悔してしまうほど、派手に汚してしまった。
自分の惨状を認め。再び謝罪しようと見てみても、バトは時を止めたままでいた。
「どうかしましたか……」
青銀の真導士が見せた動揺のせいで、自分の方が激しく動揺してしまう。
おろおろと声をかけ、気は確かかと案じ。焦点が合っていない目を、よくよく覗いてみようと身を乗り出し……間違えてバトの身体に触れる。
伸ばした右手はバトの服の上。
手触りのいい、きめ細やかな薄いシャツ越しに、その感触を得た。
服の下に何かがある。
細く何かが垂れ下がっている。何だろうこれはと視線を動かしていき、首筋を見る。青く塗れた髪と襟の間に、黒の紐があった。
首飾りだ。
バトは首飾りをしている。
意外な事実だった。四大国の男は、首飾りをよく身に着けている。それでもに意外に感じた。
これもコンラートが揃えたのかとも考えたけれど、どうも違うようだった。
コンラートならば、金か銀の首飾りでも用意するのではなかろうか。バトが掛けている首飾りは、何の変哲もない黒紐だ。飾りとして考えれば素っ気ない代物である。
胸の内がざわざわした。
焦燥に似た感覚が、右手を侵食して心臓に到達する。
思わずそこから手を離した。
心臓が完全に覆われる前に、逃げ出したのだ。
逃げ出した右手を床につく。赤い色がぴちゃりと撥ねて、またローブに赤い染みを作る。
青銀は変わらず開かれたまま。けれど刃のように鋭い輝きは失せている。
代わりに、あの幻の光が生まれている。
その光を視て、悟った。
届く。
手を伸ばせば届いてしまう。女神は。母なるパルシュナは、自分に唐突な試練を下した。
過去への扉が開かれた。
直感がわなないている。悲しみに触れるだろう。苦しさを覚えるだろう。
扉を開いたら逃れることが不可能になる。逃れられなくなるのではない。許されなくなるのだ。
そして、許せなくもなるだろう。
荊の前進か、安穏とした後退か。
(女神さま、貴女は何故……)
自分に道を示し続けるのか。自分に何を成せと言っているのか。
何も持たなかった自分に、何とも知れない力を与えて。
もっとふさわしい者がいるだろう。この国を見ても、四大国のすべてを見渡しても、ふさわしいと思える人々があふれている。
何故、自分なのか。煩悶と共に、震える指先をそっと伸ばす。
幻の光へと。
指先には赤が染みている。
拭うことも忘れ、赤の指先で幻の燐光に触れた。
世界が切り替わる。