蒼天のかけら  第九章  暗流の青史


やさしい光


「――ねえ。ねえってば」

 聞いてるの?
 娘が言う。
「"バト"にするって決めたのは自分でしょ。返事しづらいなら元の名前で呼んだ方がいい?」
 わずかな迷い。
「前の名は捨てた」
「じゃあ、ちゃんと返事してね。そうじゃないと変に思われるよ」
 不満そうな顔で、頬を膨らませた娘。
 薄い金の髪と、琥珀の瞳。左の目尻にほくろが一つ。
 これが……あの娘。
 だから、乗っているのはバトだろう。でもおかしい。感情に触れられない。
 感情の溜まっている場所が、冷たく凍っている。
「ああ」
 これはどういった会話だろう。"バト"と名付けたのはバト自身なのか。
 二人がいるのは家の居間。
 バトの家のかつてあった姿。いや、最初の姿と言うべきか。二人はたったいま、この家を建てたのだ。
 その証拠に、家には家具類が一切ない。

 夢の中を泳いだ。動いても大丈夫だ。
 次の場所が、頭上に視えた。
 上へ、上へと昇って光に頭から飛び込んだ。



 娘が泣いている。
 食卓の上で、うつ伏せになってしゃくりあげている。
「いい加減、泣き止んだらどうだ。……鬱陶しい」
 しくしくと泣く娘を前にして、バトはこんなことを言ってのけた。
「ひどい……。バトったら、最低」
 ひくひくと喉を鳴らして言う。
 ごもっともな意見である。青銀の真導士は、遥か昔から気が利かなかったようだ。
「今度は何だ。また、下らぬことに巻き込まれたのか」
 そしてまた不機嫌そうである。しかし、声に抑揚がある。
 いまならと思い感情の坩堝に触れてみたのに、変わらず凍りついていた。
「違うの……」
「では、何だ」
 娘が顔を上げた。
 泣いているせいで、鼻が真っ赤になっている。
「言いたくない」
 凍りついている感情に振動が渡った。
「……なら、勝手にしろ」
 踵を返し家を出ていく。

 今度は横が光っていた。空を蹴ってそちらに流れる。

 苦痛に顔をゆがめている男。
 男を苦しめているのはバトの腕。胸倉をつかんで相手をゆさぶっている。
「――もう一度、言ってみろ」
 激高を示している声音。
 声は厳しく、熱を帯びている。
 青銀の真導士が怒っている。凍りついた感情の中で、怒りだけは鮮明に感じ取れる。
 怒りで熱くなったバトは、相手を放り出してから腹部に蹴りを入れた。
「……勘弁してくれ」
 気に入らなかったのか、舌打ちを出す。
「もう一度、言えといっている。その口で、さんざん吹聴してきたのだろう。まだしゃべり足りぬのではないか。遠慮せず俺の前でも言ってみろ」
「二度と言わない。この通りだよ、勘弁してくれ」
 足を上げる。高い熱に煽られているバトに哀願は通用しない。
「バト!」
 後方から娘が呼ぶ。
「お願い、やめて」
 袖を引いて男とバトを引き離した。さすがに足を下ろしたようだが、怒りは燻っている。
 意識して凍った場所に触れ続け、変化が起きないかと期待を寄せた。
「俺には言えんでも、こいつになら言えるだろう。さあ、言ってみろ」
「すまなかった」
「もういいの。ね……、わたし平気だよ。これ以上はやめて。バトが怒られちゃう」
 必死に止めようとしている娘に、野次が飛ぶ。
 心臓が喚き声を出した。聞き覚えのある罵倒。つい、自分に降りかかっていると錯覚してしまう。
「誰だ」
 怒りが再燃する。
「こいつを"役立たず"と言ったのは誰だ」
 凍りついて凝った場所に、また振動が生まれた。割れるのかと思ったけれど、やはり変化は起きない。

「反省の色が見えぬぞ」
 ナナバ正師だ。
 知っているよりもずっと若い。
 場所も移動した。でも、造りを見れば一目瞭然。ここは中央棟だ。
「何度目の懲罰房入りだと思っている。そろそろ話し合いで解決する術を学ぶ時だ」
 今年の雛は、揃いも揃って気が荒い。
 説教を続ける正師から視線を反らす。外の景色は初夏。緑が鮮やかに輝いている。

 お帰り。
 扉の奥から、娘が言った。
「今回は長かったね。明日の実習には出られるの……?」
「実習があるから帰っていいと言われた。お前は何をしている」
 夜中まで起きていたのか。眠らなくていいのか。明日は実習。朝が早い。
 感情までは届かないけれど、触れられる思考が増えてきた。
「……天水の真術書を読んでたの。ナナバ正師が貸してくれたから。いろいろな真術があって夢中になっちゃった」
 本当にたくさん載っているのよ。天水の真術は一番古くからあるみたいで、数は蠱惑よりも多いんだって。だからあのね。真力が低くても大丈夫そう。わたしでも使える真術を、いっぱい見つけたんだ。
 ぽつぽつと伝えてくる娘。
 娘から言葉が落とされるたび、ささやかに振動が渡っていく。



 また、次の光を見つける。
 もう辛い。大声で叫びたい。それでも次の光へ泳いで飛び込む。
 ――この先は見たくない。



「ほら、見て」
 手の平に茶色の粒。ほろほろと白い光を零している種を見る。
「上手く籠められるようになったでしょ」
 うれしそうな笑顔。単純な奴だ。
「まだ途中だろう」
 言えば頬を膨らませた。
「いいじゃない。小さな一歩でも前進は前進だって、正師が言ってた」
 つきりと痛んだ。これは自分の痛みだ。
 凝った場所は、振動するだけ。その下にあるはずなのに。そこに眠っているのはわかるのに……。
「花壇を作りたいから手伝ってね」
「一人でやれ」
「レンガは一人で運べないよ」
 仕方のない。
「場所はどこに」
「家の前じゃ駄目かな」
 こいつはどこまでも能天気だ。
「……連中が潰しに来るだろう。人気が無い場所にしろ」
 泣かれたら面倒だ。まったく世話の焼ける。

 手についた土を払い落とした。
 目の前には花壇。掘り返した土とレンガだけのあの場所だ。
「その種は」
「白いマーディエル」
 またそれか。
「他の種類も試したらどうだ」
「ううん。これがいいの」
 妙なところで強情。幾度失敗してもこればかり。
「わざわざ選ぶような花でもあるまい」
 娘がむっと眉を寄せた。いまの発言は気に入らなかったようだ。白のマーディエルは人気が低い。年頃の娘が好むのは藍と赤のマーディエル。気が利かないバトでも、それくらいは知っていたらしい。
「花姫が好きだったのはこの花なんだよ。騎士を慰めるために植えられたの。だから一番ふさわしいと思う」
 語る娘を黙って見守る。振動がまた渡っていく。凝った場所が何かを訴えるように大きく震えた。
 いつかね。
「いつか、この花を国中に咲かせるの。輝尚石もあるけど数が少ないし、値段が高いからみんなが買えるわけじゃないでしょ。花なら誰にでも増やせるもの」
「草でいいだろう」
 本当にこの人は。
 おかしいやら何やらで、くすりと笑う。……ああ、夢の中でよかった。いまの自分はきっとひどい顔をしている。
 いびつに歪んだ笑顔をしているだろうから。
「草は駄目だよ。草の方がいっぱいになっていいけど、たくさんあり過ぎると大事にされなくなっちゃう。それに、"癒しの陣"の草がたくさんあったら、怪我してもいいやって思うかも。そんなの悲しいじゃない」
 だから花がいいの。
「一粒の種で一つの花。これくらいが丁度いいの」
 語りながら種を植えていく。白い光が土の下に隠れて視えなくなる。
 すっかり土で覆ってから、娘は植えたばかりの場所に手を置いた。
「がんばろうね」
 薄い金の髪が、風に舞う。
 バトはその光景を目で追い続けている。



 頭上に生まれた数多の光。小さな光、大きな光。
 星屑のような幻の光には、どれもこれもやさしい思い出が含まれている。
 その中で、激しく明滅を繰り返しているものがある。数は多くない。理由を求めて手近な一つに飛び込んだ。

「はい」
 差し出されたものを見た。青のとんぼ玉でできた腕輪が、娘の手に乗っている。
「……何だ、これは」
「腕輪だよ。手作りだから大事にしてね。学舎で腕輪作りが流行ってるの。よく効くおまじないなんだって」
 息を飲んだ。
「わたしも作ってもらったんだよ。自分で作ったものより、他の人に作ってもらった方がいいんだって。真術を覚えるのが早くなるって聞いたから、バトの分を作っておいたの」
 聞いたことがある話。
 つい最近、自分もこの話を聞いた。
「遊びにつき合わせるな」
「せっかく作ったんだから、着けてくれたっていいじゃない。他の子から余ったとんぼ玉をもらったんだけど、かわいい柄ばかりだったの。だから、バトに似合いそうな柄をダールで買ってきたんだよ」
「いらん。だいたい、そのようなこと誰が言い出した」
 知らない。
「でも、みんな言ってるよ。腕輪を着けてから真術を覚えるのが早くなったって……」

 どういうことか。
 これはユーリが言っていた"おまじない"の話だ。組み紐ではないけど、同じ内容と思えた。
 頭上にある数多の光から、強く激しく明滅を繰り返しているものを探す。
 数は少ない。
 あと三つ。
 残された光の内、直近の光へと進む。



「また、失敗しちゃった」
 萎れた声。
 明るい娘だと思っていた。その娘にしては声が暗い。落ち込んでいるからと考えたが、どうも様子がおかしい。
「やり直せばいい。いつものことだろう」
「……うん。そうだね」
 答えた娘の手首にとんぼ玉の腕輪。背中がさわりさわりと蠢いた。
 周囲を見れば、葉の色が変わりはじめている。
 秋だ。サガノトスの季節が巡っていく。
 風が冷えてきた。冬が近い。マーディエルの季節は長いが冬には枯れてしまう。
 今年はあと何度試せるか。帰るぞと声を掛け、娘を促す。
「どうした」
 声をかけられても、花壇の前から離れようとしない娘。
「やっぱり、駄目なのかな……」
 夕日が娘を照らす。日の光を背に受けている娘の表情は、影の下。
「わたしじゃ、何もできないのかな」
 凝っている感情が、再び震えた。
「……何か言われたのか」
 ゆるゆると首を振る。バトは娘を凝視している。
 娘は花壇の前に佇んだまま。左手首にあるとんぼ玉の腕輪を擦っている。



 次の光に泳ぐ。
 季節が一気に進んだ。
 葉は枯れ落ち、幹と枝だけになった樹木。厚手のローブ。
「バト、今日は雪が降りそうだよ。あったかくしないと駄目だからね」
 肩にはあたたかそうな毛糸のショール。淡い白の毛糸は、娘に似合っていた。
「王様に会うんでしょ。ちゃんと顔洗った? 髪もきれいにした?」
 面倒な。
 今朝方も同じことを聞いてきただろう。無駄に騒がしいのはどうにかならないか。
 まあ、落ち込んでいるよりはいい。あれは本当に鬱陶しい。
 バトの思考は、娘の話しかけの合間に紡がれている。変わらぬ平坦な感想。そのはずなのに、凝った場所が大きく大きく震えていく。振動で氷が割れそうなほど。

 ああ、見たくない。
 知りたくないのだ。この先は。

 家を出る。
 娘が空を見上げた。
「雪、降りそうだね。傘はどうするの」
「パルシュナ神殿までは馬車だ。降ったとしても大した量にならんだろう。フードで十分だ」
「本当にそれだけで大丈夫? 首、寒そうだよ」
「うるさい」
「もう、心配しているのに」
 怒ってむくれた娘。風が娘の髪をゆらす。その姿が妙に引っ掛かった。
 娘の添え髪が、片方だけ短くなっている。風に吹かれている短い右の添え髪を見て、バトは言った。
「髪はどうする気だ」
「……自分で切っちゃう。長さを揃えて切ればいいだけだから」
 娘は手で添え髪を隠すようにした。声が悲しそうで、胸が塞がれる。
「所詮は髪だ。また伸びる」
 気の利かない一言。
 それを娘は笑顔で受け取った。不器用に隠された気遣いがうれしかったのだろう。
「でも、聖華祭は行けないかな……」
 聖華祭。
 一年に一度の大祭。年頃の娘がいっせいに着飾り、冬の町を花の如く彩る。
 その日を迎えるため、特別な衣装を調えると聞いた。
 また、その日は髪を結い上げるのだ。一年に一度だけ、後ろ髪を飾って外を歩くことが許される。薄い紗で覆って被せるとはいえ、それは本当に特別なことなのだ。どういった理由か、髪を短くしてしまった娘は恥じているのだろう。短い髪はみっともない。煌びやかな祭りには似合わないと悲しんでいる。
「髪を切ったくらいで大げさだ」
 返事はなかった。薄く微笑むだけで答えようとしない娘。
 寂しい微笑みに、バトの思考が止まる。

「連れて行ってやる」
 似合わない。

「え……」
 何だ、その顔は。
 お前にまったく似合わない。
「本当に……?」
 嘆きで翳っていた顔が、みるみる明るく輝いていく。
「約束だからね」
 約束。これでいくつ目か。
 どれだけ増やせば気が済むのか。
「ああ」
「嘘ついたら、怒るからね」
「……しつこい」
「だって」
 やさしい景色。娘の笑顔がまぶしくて自分も笑顔を浮かべた。それなのに、凝った場所は大きく震えて軋んでいる。
 バトが歩き出した。後ろで娘が見送っている。
 一度だけ、娘を振り返る。
「いってらっしゃい。気をつけてね!」
 手を振り見送っている姿が、光の明滅に合わせて収束する。



(次で……最後)



 明滅をしている光は、あと一つ。
 もっとも激しく、もっとも大きい光。
 十二年前。
 黒く塗りつぶされた年に、導士として過ごしていた二人。春、夏、秋と進んで、ついに冬に到達した。
 忌憚されるようなことは起こっていない。これから起こるのだ。見渡せば、明滅する光の向こう側にある光の数は、こちら側に比べとても少ない。
 何を意味しているか。
 頭のすべてが理解する前に、光に入り込んだ。



 これで、終わりなのだ。

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