蒼天のかけら 第九章 暗流の青史
凝った心
おおいと呼ぶ声がする。
瓦礫の下だ。崩れ落ちた壁の下から人の声がする。急ぎ瓦礫を除けた。バトの右手側に人影がある。
シュタイン慧師だ。
二人で除けた瓦礫の下から、壮年の男が出てきた。
血まみれの顔。絶え絶えの息。ローブは羽織っておらず、革の上着に神鳥の紋がある。"転送の陣"の番人だろう。
「しっかり。すぐに救援が来る」
慧師の声が若い。
幼いと言ってもいい。威厳もまだ薄いけれど、毅然とした声で男に語る。
「おお……、無事な雛がいたのか。よかった。よかったのう」
ごほごほと咳き込み、血まみれの顔でくしゃりと笑う。
「何が……。何故、里がこんなことに」
問う慧師を残しバトが外に出た。崩れた壁と屋根。
どうにか形だけ保っていた転送の祠から這い出て、すべてを見る。
そこにあったのは、どす黒い世界。
木々は焼かれ。突風でもやってきたかのようにへし折られ。なぎ倒されている。
毒々しいまでの黒の世界の中、中央棟が見えた。白く白く、光を放っている。輝く中央棟の周囲にも白が舞っている。
弱々しい光が不安を誘う。
「あれは……何だ」
バトがつぶやいた。
あれは。
そう、あれは――。
触手だ。
生贄の祭壇の下。鏡の封印の下に眠っていた、赤紫の毒色をした触手。
触手がうねる。
中央棟がまばゆく輝いた。
ぐるりぐるりと旋回した触手は、次の瞬間、毒色の瘴気を吐き出した。
強い力と共に。
バトの思考が途切れる。
幻も視えない。でも、夢は終わっていなかった。
目が見えなくなっているだけだ。
「バト」
冷静な慧師の声。視界が開けた。銀色の瞳が覗いている。手には血だらけになった手布。
身を起こしたバトは、慧師の後ろを見た。横たわる陣の番人。呼吸はしていない。
「死んだのか……」
潰されたと答えた慧師は、立ち上がり視線を飛ばす。
「中央棟は生きているようだ。先ほどの"何か"は姿を消した」
見ろ。
そう言って、慧師は指し示した。
「――里が」
ぶるりと震えた。
震えたのは自分か、バトの感情か。もはや区別がつかなくなってきている。
サガノトスを見渡した。
どす黒い世界はすでに一掃されている。残ったのは重く垂れ下がった雲と、たなびく煙。
破壊しつくされた真導士の里。
バトは走っている。
瓦礫と焼けた樹木が道を埋めている。それでも走って、走ってどこかへと向かう。
たどり着いたのは白く輝いている二人の家。荒々しく扉を開く。しんと静まっている家を探して回る。
部屋の扉を開いた。
バトの部屋の向かい側にある、あの娘の部屋。開いた扉の向こうに人影はない。見つけたのは娘の名残。
机の上に広げられた布と、切り落された薄い金の髪。
中央棟に移動した。
煤けた壁の向こうに、白が敷き詰められている。
長いローブ。短いローブ。男もいる。女もいる。それぞれが黒く煤け、血に汚れている。
痛みに呻いている者も、事切れて静かになっている者も、無数にいた。
並べられている人の列の間を、バトは歩いた。そうやって歩いて、導士のローブを見つけては顔を覗く。
「バトか――!?」
呼び止められた。
ナナバ正師だ。バトの姿を見つけて駆け寄り、信じられないと首を振った。正師の姿もひどいものだった。血と泥にまみれて、頭に血止めの布を巻いている。
「お前達は無事だったのだな……」
そうか、そうかと繰り返し涙ぐむ正師は、憔悴してげっそりとやつれていた。
再会を喜ぶ正師に、バトは問うた。
娘はどこかと。
家にいなかったのだと。
その時の正師の顔はどう表せばいいのか。絶望とはこういう顔をしているのだと、初めて知った。
その後の光景は、不明瞭なものだ。
机に残された娘の髪。小雪が混じる雨の中。焼け落ちた瓦礫の傍。手の平に輝尚石。枯れたマーディエル。
ぐるぐると回る、サガノトスの景色。
景色が映り、消えるごとに、感情の坩堝から震えが失われていく。景色が収束した時、坩堝を覆っている氷が厚くなっていた。
光が収束する。
凍りついた感情をそのままに。
瞬きを一つ。
目の前には青銀の真導士。気を失っているようで、壁にもたれかかっている。
戻ってきた。
二人の物語が終わったのだ。終わってしまったのだ。
今度こそ涙を流した。
我慢していた涙は、流しても流しても止まることはなく、赤く染まった白のローブを濡らして汚す。
残されたバトを思って。
そして、過去の日々を生きていた娘を思って。
声を上げて、泣いた。