蒼天のかけら  第九章  暗流の青史


ただいま


 "闇の鐘"が聞こえる。

「ローグレストよ、気配を収めなさい。これから中央棟に向かい、慧師に報告してこよう。明日には必ず家に帰すと約束するゆえ、もう一晩だけ待ちなさい」
「いいえ、これ以上は待てません。すぐに彼女を戻してください」
 勝ちは勝ちだと認めてくれただろう。
 約束をまた反故にする気かと攻め寄っても、キクリ正師は苦笑いを浮かべるだけ。
 あれからすぐに男は立ち去った。
 立ち去ったはいいけれど、彼女が戻ってくる気配はない。これでは何のために努力したのか。やはり中央は信頼するに値しないと、腹を立てている。
「ローグレストさん、元気ですね……」
「カルデス商人は身体の造りが違うんだよ。こっちはもうへとへとだ。……なー、正師が何とかしてくれるって言ってるんだし、飯でも食いに行こう」
 ヤクスに言われて、今度は腹の虫が騒ぎ出す。
「……食堂は無理だ」
「"風波亭"でいいだろ? 今夜はお前が持てよ。全部終わったら何か奢るって言ってたもんな」
「俺は言っていない。勝手な話を作るな」
「よい、よい。今夜は私が奢ってやろう。お前達は本当によくやった。とはいえ、汚れた格好で店に入るのもまずかろう。一旦、家に帰って支度を整えるがいい。相棒にも遅くなる旨、一言伝えておくよう。今夜はいい酒をたっぷり飲ませてやろう」
 わっと盛り上がった面々と一緒に、転送で飛ばされる。
 渡った先は、自宅の前。
 導士地区の端にある我が家は、他の同期達に見つからず丁度よかったのだろう。
「……ローグレスト、あれ」
 クルトが指差した先を全員が見た。
 つられて見た自分は、夕焼け色に染まった家に釘付けとなる。
 指し示された我が家。
 久しぶりに帰ってきた家の煙突から、煙が立ち上っている。
 足が勝手に動いた。それぞれから出されたからかいは耳に入らず、一目散に扉へと向かう。

 扉が開いた。

 向こう側から開かれた扉。視界でゆれる薄い金。
「サキ……」
 驚いたせいかまるまると開かれた琥珀。
 宝玉に似た彼女の色が、夕日に溶かされ蜜色に輝く。
「――ローグ!」
 胸に飛び込んできた彼女を、両手で受け止める。
 柔い身体と、風に乗って香るリテリラ。求めていた清涼な風の気配が、全身を包む。
「すまなかった。無茶をして……また危ない目に合わせてしまった」
 サキがむずがるように首を振った。
 甘い香りが、荒れていた気力を撫でてくれる。
「わたしも、ごめんなさい。全然、真術に気づかなくて。ずっと苦しんでたのに、何もできなくて……」
「それはいい。お前が無事でよかった」
 言えば、またいやいやと首を振る。
「身体は大丈夫なのですか……?」
「ああ、完全に抜いてもらった」
 腕の中にいる彼女が、こちらを見上げてくる。不安げにゆれる蜜色。思わず右手が頬に触れた。
 滑らかな感触がたまらない。
「もう大丈夫だ」
 サキがゆっくりと瞬きをした。泣き笑いの顔になった彼女は「会いたかった」と言って、また顔を埋めてしまう。
 もっと見ていたかった蜜色を惜しみつつ、細い肩を抱き「俺もだ」と返事をした。
 再会したばかりの恋人は顔を伏せたまま、くすりと小さく笑いを落とす。何となく自分も可笑しくなって忍び笑いをした。
 やっと取り戻せたことを実感しつつ、瞑目する。

 ふと、後方で真術の気配がした。
 キクリ正師の真力が転送を展開し、場から人気が消える。
 まだいたのかと、多少の照れを誤魔化して心でぼやく。次に会った時、いったい何を言われるやら……。
 面倒なあれこれの想像ができたものの、いまはどうでもいいかと切り捨てた。
 家に入ろうと声をかける。
 すぐに返事があると思ったというのに、どうしてか無言のままでいる彼女。おかしいなと見下ろして、またもや笑いが出た。
 胸に顔を埋めているサキの耳が、夕日よりも鮮やかに染まっている。どうやら自分の行動を恥じているらしい。人前で何てことをと後悔しているに違いない。
 あまりに破天荒で、そのくせ慎み深い恋人を誘って家に入る。
 久方ぶりに灯した家のランプ。温かく照らされた居間が、自分達を迎え入れる。扉を閉め、二人で顔を見合わせてから、お互いに「ただいま」と挨拶をする。

 夜はすぐにやってくるだろう。
 それも悪くない。
 真っ赤な笑顔を眺めながら、ぼんやりと思った。

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